2006年02月28日

蔵族の正月in維族の都




#節操なしの旅日記39
Bishkek - 烏魯木斉



「タシデレー・ロサ!」


しょっぱなから久しぶりのチベット語。そう。今日という今日はチベット暦の新年「ロサ」


聖都「ラサ」を始め、カムやアムド、インド(ラダック、シッキム)、ネパールなどなど。チベット族のいるところ、大いに新しい年の訪れを祝っていることでしょうな。



わたしにとっても今回のたびの大きな目的であった「ロサinラサ」


チベットに関わっちゃった者としては、ラサで正月を迎えることは、ベツレヘムでクリスマスを、メッカでイスラム新年を、雲南辺境の中国タウン「東風」で春節を迎えることとおなじ。


これはすべて義務ですよ、義務!



くらいに思ってたのは希望にもえて成都の空港を飛び立った約40日前のこと。



なのに、
ばってん、


志ばかり高くはばたくも、現実は千キロほど足りずにゲームセット。



キルギス航空のツポレフ機はビシュケクを勢いよく飛び立ち、そしてたったの一時間半で息切れ。同じ中国内自治区の省都(区都)でもウイグル(維吾尓)族の烏魯木斉(ウルムチ)国際空港に。

ここからラサに向かうには飛行機を乗り継いでもまだ2日は必要なわけで、計画は見事に挫折。無念の敗北宣言を行うにいたったわけ。



まあ、行程を逆算すればウズベキ入りした時点からかなり厳しいのは分かってたんで、そこまで特別の感情はなかったりするわけなんだけど…


とにかく新年を迎えるってことはそのたびに心機一転、いらない物だけ捨て去って新しいスタートをきれるってことで、正月の数は西暦、農暦、藏暦と多いに越したことはない。

ちょうどわたしの中の旅行モードも最高ポイントを過ぎかなり下降低迷モード入りしてきてるんで、ちょうどいい区切りになったわけ。だから場所はウルムチでもいいかなってことで(笑)。



そんな、ようするに来るつもり全くなくて来ちゃったウルムチは極寒でござんした。


一面の銀世界プラス、歩道には平均気温が氷点下の証拠、ゴミや排気ガスなどで真っ黒い氷化した雪(歩行者を「すってんころりん」に誘うブービートラップ)がもういたるところ。


さらに空港から市内までのエアポートバスが運行されてないみたいだから、団体のキルギズ人たちがお迎えバスに乗り込むのを尻目に一人とぼとぼ空港外に歩き出すわたし。


どっか近くに路線バスが通っているだろう


と全くの勘を頼りに。


その勘はあたってたんだけど、一番近いバス停が2キロくらい離れているとはつゆ知らず。

でもバス停名は「国際空港」だったから最寄りは間違いなし。ただ、これで最後だと思ってた。肌に痛い風が絶え間なく吹き付ける中を歩くのは。


ビシュケクで危うく宿無しになる危険を冒してまで町の南かなり外れた南旅館に泊まりに行ったのは、「ここだったら中国のガイド本(≒ウルムチの宿情報)があるだろう」という一点に尽きてたわけで、多人間(ドミトリー)のある宿をもうチェック済み。ウルムチ地図もデジカメ内に撮影済み。


で、バスを2本乗り継いで辿り着いた市中心部らしきところ。そっからデジカメのレビューにて市内地図を頼りに約30分かけて「博格達(ボゴタ)賓館」まで極寒のトレッキングagain。


「多人間はもうなくなりました。シングルの最安は130元です」


はい、さようなら。


もちろん石橋をたたいて渡るわたしはもう一つドミ宿をチェック済み。

ただ、そこに行くことは想定してなくて、ついでにこの寒さも、その中を常にすってんころりん警報を発令しながら歩くことも全て考えること自体避けてたわけで、ここにきてようやく地図で新彊賓館の位置を確認。


ここから町の中心をはさんだかなり南にあるわけね。


また、てくてく、

「すっ」×5
「すってん」×3
「すってんころ」×2

くらいを体験。


ウズベキ入り以来生やし続けているヒゲにつららのような物ができあがったくらいにウルムチ駅近くの新彊賓館に到着。


さっきの博格達にくらべてかなり改革開放前チックな建物。これだったら期待も高まる。


「きょうドミは空いてる?」


「多人間はもうなくなりました。シングルの最安は…」

(うへっ、またかよ)


「60元です」
「泊まります。もちろん泊まります」



もう必要以上に歩き続けた感のあるウルムチ。

明日一日くらいは観光しようか、と思ってたんだけど、はっきり言ってもういたくない。


わたしの気持ちを十二分に察知しているかのように、ホテルには航空券売り場も付属されてたりして、部屋で約2時間ぶりに20キロのバックパックを降ろすと、休憩して疲れを取るまでもなくその「誘惑の甘い香り」するオフィスへ直行。


時刻はすでに7時近く。


「成都までなんだけど、『明日』って大丈夫だったりする?」


「うちは24時間営業だからOK。午前の便、午後?」


「一番安いやつだといくらくらい?」


「じゃあ820元。プラス諸費用混みで920元ね。」
「買った」


「あっ、でも両替しなきゃだめだから待ってもらえる?」


と、すでに気分は成都の町中を歩くような感じで銀行探しを始めるわたし。

よく考えりゃ銀行なんてとっくに閉まってる(実は日の遅い新彊は7時まで営業してたりする)し、なんとかカードでおろせる中国銀行のATMまでは辿り着いたんだけど、そこのATMは「賢くないタイプ」。

どういうことかっていうと、

インターナショナルカードを使えるって表示をしているくせに、「あなたの口座に問題があります」と取引を拒否するタイプ。



そんなわけで、かなり焦り始め、財布の中身を再確認するわたし。

「百元札が12、3、…8。五十元は1。二十元1、2。十元123と2、5元」

「…ってことは922、5元か。航空券たしか910元だったよな。明日の朝10時に銀行が開くまで12、5元で生活ってこと?夜飯、朝飯含めて…」


一応明日の午後3時台の便を予約入れてもらったんだけど、さすがに当日に金払いでは許してもらえなさそう。



すでにわたしのプランから晩酌のビールが消え、それどころか、頭の中の電卓をたたくとともに昼間の行軍中唯一の心の拠り所にしていた羊肉串の本数もどんどん減っていき、かなり質素な食卓のイメージができつつある。


「それでもこんな冷凍庫の中に更にまた24時間いなきゃいけないよりはマシ」


というのが結論。



発券の間に事情を話して窓口の小姐に同情されながら、購入しちゃいました。
合計910元(約13500円)の成都行き航空券。


これで3日連続の飛行機移動が確定。そんなバンバン金使っておきながら、空港からのタクシー代(多分500円程度)、宿代(三つ星ボゴタで約2000円)をケチるわたしってやっぱり本末転倒なのかもね。



まあ、捨てる神ありゃ拾う神あり。


航空券売り場とは逆側でホテルと隣接した「托克遜拌面」というウイグル焼きうどん「拌面(ララグマン)」のお店は超絶品。


ラグマンという料理自体はウズベクやキルギズなど中央アジア諸民族に共通に愛される麺料理(名前も同じ)なんだけど、中国内ウイグル族の作るラグマンは桁違いの洗練度。


まず旧ソ連エリアのそれはトマトベースの羊肉、羊臭全開のスープに手延べ麺という特に個性といったものはなし。

対してウイグルのそれはスープにゆでた麺を入れるのではなく、ゆでた麺の上にじゃっかん汁気も含んだトマト中心の野菜と肉の炒めものをテーブルにてぶっかけるから、イタリアのパスタか東アジアのあんかけそば。


それはスープラグマンを食べてたころから思ってたことで、だから、ちゃんとしたのが食いたくてこの店に入ったんだけど、ウイグル・ラグマンいや、これは漢字で「新彊拌面」と言うべきだ。

わたしの知ってるウイグル料理屋(in成都、北京)とはレベルがもう段違いました。


わたしが仕事を辞めた2年ほど前にいきなり流行った「本格讃岐うどん」チェーン店みたいに、お客様のお好みで具が選べます。


ちょっと例えが悪かったかな、と思わないでもなし。
もちろんそんな安っぽいもんじゃないのよ。



例えば具が選べるってのは、


茄子炒肉(7元)
香辣肉丁醤(7元)
豆角炒肉(8元)
豪華過油肉(10元)


みたいなもの。


完全な中華料理とのコラボレーション。超保守的ウイグル系には忸怩たるものあるかもしれないけれど、旨けりゃ許すというのが大多数なんじゃないか、と。


で、わたしが選ばせてもらったのは、留学生人気度95%を上回る「西紅柿鶏蛋(6元)」。美味しさもコストパフォーマンスもこれに勝るものは四川料理以外になし。



新彊拌面.jpg

◎参考写真:口福は幸福。1日の苦労もうまけりゃ全て忘れられる(麻薬と一緒)



店を出りゃ現世に戻されるのもまた現実。

旅の最後になってこのたび始まって以来の寂しさに見舞われました。財布の中身がね。2、5元(笑)。



宿代(新彊賓館) 60元
航空券(烏魯木斉ー成都) 910元
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2006年02月27日

KYRGYZで「名刺交換」




#節操なしの旅日記38
Osh - Bishkek


昨日のうちに市内の代理店で航空券の価格を確認。


「へっ、この程度なの?」


っていうくらいの値段だったんでその場で購入か、といえばそんなすんなり行かないのが旧共産圏。チケッを手にいれるためだけに郊外の空港まで足を延ばしてようやく「陸の孤島・オシュ」を抜け出すためのアイテムを入手してたのが、これまでの流れ。



出発は午後の便。


なぜなら本日は、何はともあれレジストレーション(外国人登録)を済ませなきゃいけないから。


OVIRという組織がその窓口なんで、役所が始まるだろう時間帯(9時)にドアをたたけるように早めに宿を立ち退いたんだけど、


「OVIR行ってくる間、これ(バックパック20kg)預かってくれない」


「ニエット(ダメだ)」


その目ぢからは仁王像そのもの。何でそんな血走るほどに力をいれるのか、というくらいに協力を拒否してくるレセプションおばちゃんの意味分かんない。



ああ、これで役所までの往復4キロ、さらにその後も午後2時くらいまで時間つぶしための町歩きが単なるお散歩ではなく、家財道具一式を背負った「本格トレッキング」になるの決定ね。




OVIRの場所は比較的すぐ見つかり、外国人登録以外にも多分なんかの仕事に忙しいおばちゃんに


「レジストレーション?」


と声をかけると、意外にあっさり通じて、パスポートの一枚目とキルギズ入国スタンプのページをコピーをとられたうえで、「わたしについてきなさい」の仕草。



で、彼女についてちょっとした小ホールをはさんだ別の部屋に入ったんだけど、まあ驚いた(多分おばちゃんも)。


部屋の中はまるで建築作業現場。


コンクリート剥き出しで、家具も灯りもなく、作業員らしき数人がいるだけ。だからもちろんレジストレーションなんてできる雰囲気微塵もなし。



じゃっかん、よう訳わからん時間が経過したあと、たぬき親父みたいな人物現れて、


「パスポート・デパートメントへ行け」



おいおい、またたらい回しかよ。とんでもない場所だったらそのたぬき皮すべてはいで火鍋スープに入れちゃうにつけちゃうよ


なんてひどいことを思いついちゃったりするのは、当然背中に背負った20キロの重荷のせい。


さいわいなことに「パスポート・デパートメント」とやらはOVIRから中心部に戻るそのほぼ途中にあるみたい。



オシュホテルという町で一番でかいホテルの正面入り口に面した通りをさらに山の方向に一ブロック上った進行方向左側。そこはちょうど高いフェンスに囲まれたブロックで、当然のこと看板はないけど、お役所的なにおいはぷんぷん。



パスポート局.jpg

◎参考写真1:ある意味ほんと初めて参考写真。行く人あれば参考に



20段ほどの階段を上ればそこが「パスポート・デパートメント」。日本パスポート見せれば行くべき部屋を指示され、申請書書いて100com払ってはいOK。あっさりするくらい簡単にパスポートに訳わからんスタンプが追加されることに。




さあ、あとは飛行機待ち。



さいわい今日もまたお日さま機嫌のよろしい一日で公園でひなたぼっこもできるほど。


旅にでて約40日分の出納記録を眺めながら、小学校のとき以来の膨大な足し算練習をこなしてみたんだけど、日々数十円をけちってるのが馬鹿らしくなるほど悲しいことに。これはまた後日まとめますよ。



飛行機は15時50分発で、待合室内で知り合った日本語の堪能なキルギズ人女性と相席。


キルギズ人文大学で5年間日本語を学び、岩手大学にも1年間留学していたという彼女。現在はオシュで警察官をしている男性と結婚して、生後6ヶ月の女の子との3人暮らし。


今日は約5ヶ月ぶりに自分の実家(ビシュケク)に帰って約1ヶ月ほど滞在するのだそう。


「日本語話すの久しぶりね
「妊娠のときは味噌汁が飲みたかった」


というほのぼのした話題から、


「だんなは昨日殺人事件の容疑者捕まえました。ナイフを盛ってて大変だったそうね」


という、あまりに平穏な日常に緩んでいたわたしの緊張感を刺激してくれるような面白話まで。そして、


「空港から市内にはわたしの迎えの車に乗っていってください。兄が迎えに来ているはずですから」


と、これこそうれしいご提案。



たった50分のフライトだから、あっという間にビシュケクの空港に到着。

空港まで迎えに来ていた兄らしき人物と久しぶりの対面を果たすと、わたしがかなりしつこいタクシーの客引きをあしらっているうち、あっという間に彼女は消えてしまったのでした。



すでに夕方の5時を過ぎたころ。とにかく最近の懸案事項になっている宿探しを始めなきゃいけないんだけど、とにかく目的の「サウスゲストハウス(南旅館)」ってのが遠い遠い。



ミニバスとトローリーバスを乗り継いで約1時間半。


もうだいぶこの手の宿を探し当てるのにはなれたんで、今回もアパートの一角にある目的地には何とか日暮れ前までには意外には到着。


で、ドアをたたき呼び鈴を鳴らすと、やはりここでも応答なし。


これでfergana、oshに続いて3度目。
こっそり宿をやるのはいいが、留守はやめなさい、留守は。



仕方なくその場を離れ、周囲に電話のかけられるキオスクがないか、探してみても、やっぱりここビシュケクはまがりなりにも首都。公衆電話が普及していて、キオスクには電話機はなし。つまりは、カードも硬貨もないわたしに連絡の手段なし。


おいおい、今からまた別の場所に行けってか?ここ中心部からかなりはなれてるんよ。もう暗くなっちゃってるし…


なんてぶつくさ言いながら、もう一回だけ宿のあるアパートに向かい始めると、


「南旅館ですか?」


と背後から日本語。
いたのはさっきのキルギズ人女性、では当然なくて、日本人男性(客)とキルギズ人男性(宿主)のコンビ。3度目の正直でなんとか闇宿中の闇宿「南旅館」の扉をくぐることができたのでした。



ウズベクやキルギズで見てきた数冊の情報ノートを読む限りでは「かなりの日本人宿」という雰囲気だったんだけど、やはり季節のせいなのか。ここ数日、客はその男性「ティエンフー」ただ一人。


だからそのティエンフーとマンツーマンで話しこんだんだけど、まあこれもめぐり合わせ。旅の最後に来て最高の収穫(出会い)を果たすことができたということ。


思わずこっちから名刺(残りまだ50数枚)渡しちゃったんだけど、向こうも名刺がえしてくるから、これって久しぶりの「名刺交換」。キルギズのこんなところでやっちゃいましたよ(笑)。



で、わたしよりいっこ下のティエンフー(「天府」じゃないよ)の何がおもろいかって言うと、


まず正月前からこの宿にいるくらいの沈没者。
それだけじゃなくてロシア語かなり堪能な中央アジアマニア。


昨年末にはタジキスタンのかなり奥、パミール高原あたりにもずかずか入り込んじゃって、しかも名刺にある「PHOTGRAPHER」の肩書きどおり、すごいカメラ機材をしょいながらってことだから、まあ大層なことを。


で、


「その前何してましたか?」


「カブールのユニセフ事務所で1年半働いてた。けど、アフガン人にはとことん嫌気がさしたね、もう」


とここからさらに話が続いて、もちろんもっぱらわたしが聞き役なんだけど、それでもこんなに日本語はなしたのは久しぶりってくらい。気付いたらもう午前2時半だったりする。



南旅館.jpg

◎参考写真2:旅人が夜な夜な、語り尽くせぬ話題で盛り上がる南旅館

いやぁ、まだまだ面白い日本人、世界中にたくさん散らばってるってことですな。


宿代(南旅館) 130com
posted by 牧場主 at 00:00| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | またまた旅に出ました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

KYRGYZの「よこべん」




#節操なしの旅日記37
Osh


「よこべん」と聞いてとっさに


「もう、やめてっ!」


というフレーズを思い出しちゃうあなた。そんなあなたにこそ呼んでもらいたい今日の旅日記。


早いもんでもう干支が一回りしてしまったけど、記憶にはまだ鮮明な地下鉄サリン事件。
引き受け手が誰もいない教祖様の弁護人を買って出たため、一躍、時の人になってしまった横山某弁護士。


結局、話題だけが先行し、注目度が高まるにつれて過去の自らの悪行がばれたりしたため、弁護を引き受けるどころか弁護士資格すら剥奪され、その後は数年に一度、写真週刊誌などの「あの人は今」のコーナーで見かけるだけのおじいちゃん。



そんな彼がマスコミの注目を最高潮に浴び、報道陣にもみくちゃにされながら言ったせりふが、


「もう、やめてっ!」


だったんだけど、やめたのは本人だったというのがオチ。


彼に大なり小なり人生を狂わされた人を数え上げれは日本国内だけでも3桁くらいはいそうな感じ。



そして舞台はキルギスタン。

本日、一人の好青年が彼の毒牙にかかり、これからの進むべき道を180度変えざるをえない窮地に追い込まれたというから、そりゃ大変なこった。



二日前の日記でもふれたことだけど、キルギスタンにおけるわたしの立場は「トランジット状態」。

日本人は基本的にビザなし旅行OKなんだけど、5日以上滞在する場合は入国から5日以内に地元のOVIRという役所で登録を済ませなければいけない規則で、登録を怠れば出国時にトラブルの原因になりかねないもの。


わたしの場合、どうせ言葉の通じない&不親切な役所になんて行きたくないという思いと、ちょうど土日をはさんでいるという間の悪さも加わり、4日以内に中国に抜けましょうという目論見があったわけ。


で、逆算すると今日のうちにオシュを離れてイルケシュタム峠という国境にも近いサルタッシュまで移動しておきましょう、いや、おかねばならぬしがない身分。


すでに昨日のうちからバスターミナルで


「サルタッシュに行くにはその先のダルート・コルガン行きのバスに乗れば大丈夫。出発は朝の9時だから」


というチケット販売ブースの中で切符は売らずにだべっていたおばちゃん二人から言質を確保。

ついでにキルギス3日目になってようやくウズベキスタンとの時差がマイナス一時間生じていることに気づいて


「ひえぇ−。こっちの方が早いから危うく乗り遅れるとこだったぜ」


と胸をなでおろしたところ。


そんでもって本日は超余裕をもって8時前には市中心部にある旧バスターミナルに待機。まだ人影もまばらなうちなんで、ひまなドライバーなんかに声をかけられ、


「サリタッシュ行きはないぞ」

「いや、ダルート・コルガン行きなんで…」


「ああ、それならあの車だよ」

と、トラックの後ろに荷物置き場兼客席のコンテナ(すでに搭載荷物で75%占領、人の姿なし)を接続した、超普通じゃない所方面仕様の車両を指差されて、さもありなん。


何せ、サルタッシュの手前には3600m超えの峠があって、その峠以降はいわゆるパミール高原の懐。バスも貴重な輸送手段だから生活物資を届けなきゃいけないしそんな場所に平地仕様のバスでは頼りないのは当然のこと。


これじゃ何時間かかるんかねぇ


と思いつつも、それは出発自体を信じているからこその不安。
ところが時間は刻々と過ぎていくのに、このトラックの周囲には何の変化もなし。すでに9時10分前。


こりゃあおかしい


と昨日たずねた切符売り場に向かおうとすると、別の角度から


「サリタッシュ?」


の声。多分バックパック背負ってる外国人だから尋ねたんだろうけど、声の主は50くらいの親父。言われるままにバスターミナルのはしっこ、駐車スペースに足を踏み入れたときに改めて声をかけてきたのが、迷彩服に身を固めた「よこべん」だったわけ。



「これに乗って待ってろ。10時には出るから」


と、ミニバスと言えなくもないんだけど、かなり古くてちょっぴり普通のタイプより車高が高い車両にご案内。


車内は11人乗りくらいのスペース。



「サルタッシュか。そのあとイルケシュタム(国境)に行くのか。500comだ。もちろんサルタッシュまでで」


と歯並びの悪い口からちょっと抜けたような声で相場の2〜2,5倍をふっかけてくるあたりからして「よこべん」。


「あほか。200じゃ」


「おまえ一人しかいないんだぞ。人が増えたら値段も下がる」

と一応向こうの理屈も通らないではなし。


とにかく予定より遅れるけど、あと1時間待ってみるか。
あっちのトラックもぜんぜん動きないしな。


「よこべん」は工具を取り出し、車の下にもぐり、各パーツの点検を開始。



よこべんjpg.jpg

◎参考写真1:顔は見えないけれど、本当に似てるんだってばぁ



やる気見せるじゃないの。それは客集めの前にすることだけどね。


と最初は感心していたものの、とにかく車内でじっと待っていると、寒いのなんのって。

もともと暖房などないような車な上に本日の冷え込み、半端もんじゃございません。


日本だったら「放射冷却にご注意を」なんて気象キャスターが言うんだろうけど、靴下ズボンの二枚ばきでも下半身からずしーんと冷機が襲ってくる。


オシュ入りして最高(=最低)、いや今回のたび始まって一番かも。これは峠越えはどうなんのよ。今のうちに解放軍ももひき取り出しとこうかな


なんてマジで心配に。あと、もう10時もとっくに過ぎちゃってるんですけれども〜。ねえ、よこべん?


ようやく車の下から這い出てくると、運転席に座ってエンジンを空ぶかし。


「ぶるーん、ぶるぶる、ぶるぶるぶるーーん」


いやあ、最高潮じゃないっすか。もうどんな山道もへっちゃら。さあいざゆかん!


あれっ?

外の喧嘩を見物に行く段じゃないでしょ。ほら、仲直り成立に笑顔見せないで。あっ、そして手を洗いにいく。それは結構。ようやく戻ってきたね。


「明日で直して来い。今日はやめだ」


「へっ?意味わかんないんすけど(思わず日本語)」


「客がおまえしかいないからだ」


(それを承知で500comって言ったんやないんかい。思わせぶりな態度とりやがっ、もう11時やないか。ほかの場所からの乗合があったとしてももうとっくに出っ発っとるわ!このくそが!!)


あっ、、取り乱してしまいました。すいません(ダ倶楽部上島)


この時点で明日の中国入りは不可能に。それどころかキルギス滞在5日以上は確実となり、明日はビザ登録のためにOVIRに行かなきゃならない羽目に。


実際わたし以外一人も客が集まらないとはまったく考えもしなかったりする。


この分じゃ、少なくとも夏のシーズンだったら確実に月曜日と水曜日に運行されて中国行き直行バス(24時間)だって直前まで待たされた挙句に


「今回はキャンセルだ。次の便まで待て」

と言われかねない。

金を出して国境までタクシーをかりきるか?
それも足元見られて100$まで下がれば恩の字だろうな。



よく覚えてないけど「よこべん」に少しだけ汚い捨てぜりふを残したあと、バスターミナルを出て道路をわたったバザール方面へ。

今日は日曜日。中央アジアでも最大規模といわれる規模と賑わいの市場が人であふれそうなほどなのに、それを楽しむ余裕はなし。


それなら、もういっそのこと、あの手を使うか



ちょうど前後して目に入ってきたのが懐かしいの赤い色たち。



唐辛子売り.jpg

◎参考写真2:中央アジアの市場ではあまり見かけない唐辛子コーナー



悪い男にだまされて茫然自失になってたわたしを正気に戻してくれたのはやはりカプサイチンパワー。


今回はこんくらいまでにしとくか


気持ちがふっ切れたとたん、これ以上ないくらいに透き通った青空が目に入ってきたから不思議なもの。もちろんオシュに来て初めて。そりゃ明け方冷え込むはずだわ(笑)。



追伸:勘のいい人なら分かったはず。白熱球発電は見事成功したのであります。


宿代(Sara Hotel) 215com
航空券(Osh-Bishkek-Urumqi) 187$+300com
posted by 牧場主 at 00:00| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | またまた旅に出ました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

「かんち」にかたなし




#節操なしの旅日記36
Osh


(な〜に〜からつたえれっばっ、い〜いっのか♪)
(わっからないまま、ときはなが〜れて♪)


「か〜んち!」(鈴木保奈美)


「この半端もん!役たたずがぁ〜(怒)!!」


                           (キルギズ??ストーリー・つづく)



「更新が遅い」
「生きてるんか。このボケぇ」


など、各方面からクレームが入り始めた拙blogを支えているものこそ、日記専用ポケットPCとデジカメ。


旅立ち前にも紹介したけど、おさらいするなら上記二品目を含め、今のわたしが携行する電化製品は基本的に乾電池使用。


どのアイテムも決して時代の先端を行くではなし。


しかしある意味「究極のオールラウンドブロガー」(どんな状況、僻地でも日記を書きつづける)を目指すものとしては、


コンセント差せないくらいで身動きできなるなるようじゃ話ならん


とも言えるわけで。


この中央アジアのしけたネット、パソコン環境のおかげで更新こそはなはだ停滞中(まだインド?)ながら、日記は「前日分当日出稿」をキープしてるから大したもの。

証人いないのをいいことに!


いやいや、これだけ(笑)はホントにほんと。
一度貯め込んちゃうと破綻は目に見えてるわけだから…



で、本日はその規則正しい執筆生活に最大の危機にひんしているという話。


世界のすべての紛争がとどのつまりは「エネルギー問題」に集約されているように、わたしの平穏な営みも「エネルギー(=乾電池)問題」によって赤信号が灯りつつあるというわけ。


いくら皆勤賞のためとはいえ、地球環境によくない小売用乾電池を使ってるはずもなく、単3型6本と単4型4本の充電池を持ち歩いてるからこそエコロジー。


つまり、コンセントのある所では宿のコンセントから充電するし、コンセントのないような僻地でも、ドラえもんにすら登場しなかった未来の発明品「携帯型ソーラー充電器(iPodShuffle充電だって可能)」を用いてお日様の助けを借りるというすばらしいプランを立ててたわけ。


ところが、

万全と思われていたその計画の隙をついたのが中央アジア。



まずコンセントの形が違う。

インドみたいにプラグコンバーター(コンセントアダプター)も売っていない(簡単に見つからない)から、コンセントからの充電はだめ。


続いて太陽光発電。

ここ数日、お日様を拝んだためしなし。もともと「電気がない場所=太陽光だけは痛いほどあふれるチベットの田舎」を予定してただけに、太陽光を利用できないのは想定外なわけ。


もちろん、ここ中央アジアにいること自体も予定調和から完全に逸脱した行為ではあるんだけど。



とにかく、ぐたぐた言っても始まらず。


朝の段階で、もう単3はほぼすべての電池を使い果たし、これ以上日記は書けず、写真はたぶんあと1、2枚が限界かと。つまりは身動き取れなくなっちゃったってこと。


で、仕方なく近所のキオスクで品定め。
ロシア文字だけど、4本組みで一応パックしてあるやつ。


「おっちゃんこれいくら」


(電卓をたたき)
「〆仝≦ゞ〒Σ※」(10com=約30円の表示)


(おっ安いじゃ〜ん。いっただきー!)


で、宿に帰って早速PCとデジカメにそ〜ちゃ〜く!


「か〜んち?」


PC:うんともすんとも言わず
デジカメ:かろうじて電源不足の「赤ランプ」。2秒後、ご臨終


「この半端もん!役たたずがぁ〜(怒)!!」


皆さん、この気持ち分かるでしょう?



このままじゃいかん、と続く外出の際は「KODAK」のシールがべたべた張りまくられたカメラ屋の門を叩いてみることに。


おう、あった。あった。

ガラスケースの中、ここにも「KODAK」印の単3二本組が大事そうに4セットだけ展示されておるではないか。


同じブランドの気安さか、わがデジカメを見せると店員のお姉ちゃん、電池のパックをあけて「試していいわよ」と思わせぶりな仕草。


「使えなかったら買わないよ」


とは言えないのが男の性なわけで、半ば祈る気持ちで…、でもやっぱ米国ブランド。ファインダーが開き、レンズがむくむくとしゃしゃり出てくる様はまるでテキサスの荒馬のよう。


ただ、さすがは超大国。
ロシア製4本の6倍。60comは驚きの値段。



「荒馬コダック」はすでにガス欠のPCに装着。息を吹き返してもらうが、すでに画面上では「メーンバッテリー」のアイコンが半分以上「空」なのが気にならないでもなし。この国抜けるくらいまでは何とかなるっちゃなかろーかい。



電源問題だけに縛られず、どんな状態でも観光への努力を忘れないのがまたこ憎らしいところ。


オシュにおけるバザール以外唯一の見所といってもいい、今ではイスラム教の聖地「Solomon's Throne(ソロモンの王座)」というたいそうな名前の丘に上って、こんなもん撮ってもなぁ、と思いつつぱしゃり。



オシュの眺め.jpg

◎参考写真1:これがオシュの町の眺め。とにかく寂しさしか伝わらず


そしてこれがわが充電池の「遺作」となることに。これで完全に充電生活とはいったん距離を置くことになってしまった瞬間。おそらく寒さで動きが鈍ったってのもあるんだろうけれど、


それにしてもここ数日の減りの速さはすごかったよなぁ


敬虔なムスリムが絶えず巡礼に訪れる巨大な岩山の頂上にて、しばし、アッラーもあきれるほど別世界のよしなしごとに頭を悩ませるのでした。


山を降りると、早速、乾電池探しの小旅行。


ロシア製No
米国製OK


じゃあ次はわが日本製でしょう


人一倍薄いはずの愛国心がこんなところでもたげてくるから不思議なもの。


しかし、まあ、どこで探すべか?


と思い悩むよりまず動け。すると一発目の文房具店で早速、


「maxel exper」と印字された赤い乾電池(二本組)と遭遇。


手にとってみれば、

「Hitachi Maxell,Ltd.Tokyo,Japan」

とご丁寧な自己紹介も確認。


「おにいチャンこれいくら」


「twelve」


えっ、英語っすか?
もう即買い、と行きたかったんだけど、ここはやはり確認を。

デジカメに挿入したところ順調に動き出しました。文句ないでしょう。値段も12com(約35円)だったら、現地の人にとっても高くはないはず。


いいものを安く売る


これこそ日本製品の基本。
戦後成長を支え続けた原理原則でしょう


で、宿に戻ってさっきとった写真の確認。


「か〜んち?」

「ねぇってばぁ?かぁ〜んち?」


「…この半端もん!露助(ろすけ)より5秒長持ちしただけかい!」
「この早漏、放電野郎が!!」


みなさん、中央アジアで乾電池を買うときは高いものを買いましょう。日本製品であろうとなかろうと、安物買いは確実に銭を失う羽目に…。



で、今後どうするのかって?

壮大な実験を思いついちゃったわけ。


別にソーラー発電は太陽光でなくても大丈夫なはず。

部屋の灯りに特別装置を取り付け、直射日光ならぬ直射白熱光を浴びせて充電できないのか、というコペルニクス的な実験を開始したところ。


ソーラー発電の原理を知らないからできる暴挙と言えなくもないけど、



ソーラーパワー.jpg

◎参考写真2:必要は発明の母。実験成功の暁には世界のエ問題解決も


明朝になればきっと単3二本分くらいはたまっていてくれるはず。明るくちゃ寝れない人にはちょっとつらいかも、ね。


キルギスまできて何してんでしょう。わたしって(笑)。


乾電池単3四本(ロシア製) 10com
乾電池単3二本(アメリカ製)60com
乾電池単3二本(多分日本製)12com
宿代(Sara Hotel) 215com
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2006年02月24日

あと少し「自己責任」




#節操なしの旅日記35
Fergana -Osh(Kyrgyzstan)


要するに何もそそられない町「フェルガナ」にいたってしょうがないと、早速早起きして国境越えにとりかかりましょう。


昨日のうち宿の人たちに


「オシュ(キルギズスタン第二の都市)にはどういけばいい?」

って聞いといたんだけど、


「バザールの近くから8時と9時に国境近くまでのバスが出るわよ。国境にはそこから乗合タクシーに乗り換えて」


親切なようでいかんせん、旅なれない現地人の説明。


わたしたちが知りたいような、

バザールのどこ(東西南北)からいつ(8、9時の2本なのか、その間なのか)出るのか、乗り換えは同じ場所でできるのか、


など痒いところには手が届かず。

言葉がわかりゃその場で聞きゃあいいんだけど、言葉できないからおさえときたい不安もあるわけで…。

もちろん情報を再確認するため、どこかに電話でたずねてくれることもまずなし。
それは望みすぎか(苦笑)。



結局のところは、バザールの近くから乗合タクシーで国境まで直でGO。


またしてもお世話になりますDAEWOOなんだけど、今度は軽自動車。


後部座席に男3人は、すでに現役を離れて10年、ラッシュアワーの中央線くらいにつらいものがあるけど、これだけの重量でも時速100キロを超えてくれるからキムチパワーには恐れ入る以外になし。



ウズベク側出国手続きでは、またしてもあの面倒な税関申告書(現地語表記のみ)を2枚書かされるも、入国時の控えが手元にあるから何とかOK。


対して、



    く

        て

    く



    く


と、50メートル歩いた先のキルギズ側検問所。


これが、小学校の教室の一番後ろにあった掃除用具入れを2回りくらい大きくしただけの粗末な小屋なんだけど、そこにて英語の通じない係員(兵士)に滞在予定を聞かれ、


「中国に向かうバスがいつ出るのかまだよく知らないし、雪の状況でも変わってくるので滞在日数はわかりません。とりあえず2週間にしといてください」


とわっかぁーりやっっすぅーい英単語で伝えようとするんだけど、分かろうとしてくれない。

こっちもあきらめ半分で


「2weeks!」


っていっちゃうとそこだけ反応。もしかして「2」にだけ反応してパスポートに変なスタンプ(2日間有効とか)押してないよな、とあせって確認。


どうやらそこまで複雑なスタンプではないみたいなんで一安心。
ここから数キロ先にあるオシュ(バザール)行きのミニバスも検問所のすぐ先にたむろ状態だったんでスムーズな接続で、また新しい国でのたびが始まったわけすよ。



そういや、この付近こそ、「渡航の延期をすすめる」(外務省)の最たるところだったんだけど、国境をまたいだ感覚では緊張感を感じることはできず。


すでに「自己責任」に麻痺してしまってるのだろうか、と思うことだけは一応忘れずに。



ここで「キルギスタンのたび」の予定をご紹介。


東洋のスイスを目指して観光産業に力をいれる同国。

中央アジアでいち早く日本人に対してビザ免除の取り組みをはじめ、またヨーロッパのコンサルタントの指導のもと、全国各地にネットワーク化したホームステイシステムを導入。遊牧民のテントでの宿泊や、伝統音楽や料理の体験などで観光客を呼び込もうという取り組みはすでに軌道に乗り始めているらしい。


でも、わたしはどこにも行きません。
時間もなけりゃ、タイミングも悪すぎる。


悲しいかな今は真冬。

そんなアトラクションが楽しめるには最低でも1ヶ月は待たねばならず。



この標高約900mのオシュでも、一日中霧のようにじんわりとだけど降りやまない雨が雪に変わりそうなターニングポイントだったりするのに、こっから愛しき(今の正直な気持ちね)中国に抜けるには、あと2000m以上高度をあげなきゃならなかったりする。


もちろん夏にはちゃんとした交通機関(バス週2便)があるんだけど、この時期にはそれすら運休してて、今のトランジット状態(最高四日間の滞在)じゃ日数が足りずに改めてツーリストビザへの手続きをしたり、それでも足が見つからずに八方ふさがりになるかもしれない不安だって…。



だから早めに落ち着く場所を決めて情報収集始めなきゃいけないんだけど、またしても「ソ連の亡霊」に悩まされる羽目に。


昨日と同じように、20キロ超級のバックパックを背負い、えっちらおっちら寒空の下で汗をにじませながら、アパートの一室をつかった道標も何もない(かろうじてドアには名前が書いてあった)宿「Osh Guesthouse」までたどり着いたはいいが、何度ドアをたたいても返答なし。


近くのキオスクから電話をかけるも応答なし。


宿探しをネタにするのは一日だけでOKじゃい!


なわけで、


寂しいオシュ.jpg

◎参考写真:バザールの中を歩きながら、とぼとぼ第二候補に落ち着くことに。

こっちはサマルカンドの宿でチェックしておいた、バザールの中にあって日本語の情報ノートも置いてるような宿なんだけど、いかんせん情報は季節(春夏秋)もの限定。また宿を仕切ってる前頭級のおばちゃんもやはり完全現地語オンリー。



だからこそ管理人が英語を話せるっていう「Osh.GH」を選ぼうとしたんだけど、交通機関の有無を調べるだけで数倍の時間と神経を使うことになるんだから、ほんと、このもどかしさはなんとかならんもんうかね。



とにかくキルギズ一日目。


想像以上に底冷えする寒さに辟易しながら、せっかく買った地ビール(500ml、約40円)も口のところがちょっとだけ割れてて、じみ〜にお気に入りバッグをぬらし、そして炭酸の抜けた冷たいビールは、炭酸ありのぬるビールの足元にも及ばないほどまずいことだけを勉強する切ない夜を迎えるのでした。



乗合タクシー(Fergana-Dustlyk) 5000SOM
ホテル 200com
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2006年02月23日

社会主義の残滓ざんす




#節操なしの旅日記34
Tashkent - Fergana


「しゅう〜いのな〜がれにみ〜をまかせ〜♪」
「ウ〜ズベクい〜ろにそ〜められ〜♪」


結果、フェルガナ行きの乗合タクシーにのっちゃった!


このフェルガナなんだけど、フェルガナ地方の中心地。英語だとFergana Valleyっていうんだけど、べつに峡谷に張り付くように続いてるわけでもなんでもなく、総面積22万平方Kmだから日本の半分以上はあるような広大なエリア。


北を天山山脈、南をパミール高原にはさまれた、果てしなく広がる広大な盆地ですな。このなかにウズベキスタンのフェルガナ部分とキルギスタンのフェルガナ部分が、旧ソ連の引いた国境ラインによって今も同居してるというわけ。


だから外部からフェルガナ盆地に入るには一度どっかの峠を超えなきゃいけないわけで、タシケントからだと標高約2200mのカムチック峠というのが分水嶺。



そんな周囲からは隔絶されたエリアだから、独立意識とかも高いわけでじっさいにドンパチがないわけでもなく、、外務省の「渡航延期を進めるエリア」入りしたりもしてる。


タシケントからの道のり、計5、6ポイントの検問所があり、そのうち実際に車をとめられたのは2箇所。一つ目はタシケントを出てすぐのところで、乗客全員(ウズベク人も)のパスポートをチェック。


で、2ヶ所目はさあいよいよ、峠に向かって本格上りに入りましょうか、という地点。


ここでは、社葬からのぞきこんだ警察官が、どうしても一人だけ「浮いてしまう」わたしに目をつけ、「パスポート!」と命令口調。


わたしも元来警官嫌いだから、普通だったらちょっとぐずってみるのもありなんだけど、今回は到底パス。

なぜかって、この警官、中川家・弟を金髪にして警官の制服着せた人だったから。口ぶりまで阪神応援団みたいなダミ声で攻めてくるから、笑いをこらえるのにもう必死でしょう(笑)。


パスポートは運転手とともにどこかに消え去り、約5分後、車内で待ってたわたしの手元に復帰。

とくに何か質問されたわけじゃないから、どうやらフェルガナ地域に入る外国人の入域記録表か何かに記入したんじゃないか、というのが勝手な想像。


さて、フェルガナへの道なんだけど、この2回目のチェックポイントと前後して、にわか雨から雪混じりの完全容赦ない天候に様変わり。


遠くの景色を楽しむどころか、視界数十メートルだから運転の安全性のほうが気がかり。


幸い、峠の最高地点にいたるまで、片道三車線ほどのスペースが確保されていたため、対抗車両に冷やっとすることなどはなし。

またここでも活躍、韓国「大宇(Daewoo)」社製の軽乗用車は最後まで平均時速70km以上を確保してくれたから、移動はいたってスムーズ。



で、最後はトンネルを抜けていよいよフェルガナ地方に入ったわけなんだけど、当然ながらすぐに何かが変わるでもなし。


ただ、親の稼いだ金を湯水のごとく使いまくるどこかのどら息子のように、今までのせっかく稼いできた高度を容赦なく使い果たすような下りをかっとばし、標高があっという間に500mくらいになったころ、馬を見ました。



「こ、これこそが汗血馬ではないのか!」


いままでチベットやインドなどで見てきた馬とは明らかに異なる大きさ。
JRAレベルといってもいいようなケツのあたりの肉付き。

そう、はるか昔よりこのフェルガナ(大宛)の名を世界ブランドに高めた、血を流しながら千里を駆けるといわれる「汗血馬」こそ、この地方の特産品(道の駅では扱わず)。


漢の武帝が遠征軍を送ってまで欲したというのは、一部の人には超有名(=マニアックな?)な話で、どうやらわたしが目にしているそれも、単なる農耕用とも、単なるショウガ醤油かポン酢につけて食べられるため生まれてきたのとも段違いの気品を感じさせてるみたい。


そうか、フェルガナにはこれもあったんだ。ノーチェックだったのはちょっと不覚だったな



で、くだりを終えると本当に平らな盆地。けっきょく出発から4時間かそこらで目的地フェルガナ中の「フェルガナ」にたどりついたわけ。



で、本日前半が都合よく行きすぎたせいか、こっから美味しい「おまんま(&ビール)」をいただくための汗のかきどころの始まり。


乗合タクシーで玄関まで横付けしてもらった某ホテル。


「シングルはありますか?」


「あいにくスイートしか残ってませんで。17$になります」


だって。

シングル12$(ガイド情報)の宿でスイートが5$増しで泊まれるってなんて素敵なんでしょう


とときめくほど心に余裕のないわたし。「受付の従業員は外国人にぼってくるので注意」とあれば、「スイート」とは単なるシングルルームで差額の5$がどこに消え去るのかも含めて、十分に検討する必要が生じてくる。

大体最高気温が0度をちょっと越すような最悪のシーズンにあって、何で部屋が埋まることなどありましょう


けっきょく自分の5$のために、この客少ないシーズンにおいてはホテル全体にとっても結構貴重なはずの12$を逃してしまうおろかさ。「没有」と言わなくなった中国人がちょっぴり恋しくなってしまうくらい、社会主義と資本主義意からそれぞれ悪い影響を受けちゃった典型やね。



だから、宿探しは続く。


次はホームステイに挑戦。周りの人間よりもちょっと賢くて、ちょっとお金儲けの才覚のある人が近年はじめたサイドビジネスのひとつ。


アパートの部屋がひとつでもあいていれば、1ベッドにつき5〜10$は堅いわけだからさしたる投資もいらないぼろい商売。


ところが、せっかくいいところに目をつけた彼らなんだけど、やっぱり体にしみついた旧体制のしばりをうけるらしく、肝心なところで抜けてる部分が…


ただですらわかりにくいアパートの一角。
看板のひとつすら立てないのは何でじゃ〜い!



宿の立地最悪.jpg

◎参考写真1:こんなところに宿があるなんて誰が思う?客ほしくないの?


近所のガキに愛想笑いを振りまいてまでどうにかたどり着いたものの、扉の向こうから反応はなし。メシ食って再訪も同じ。結局、電話をかけてようやく接触を果たしたわけで、まあ、まあ、これまでが順調すぎたんだ、と思うことで無理やり納得。


ちなみに部屋自体はとってもきれいで、使いやすかったというのを補足で。



ようやく荷物もおけたんで、お散歩にでも出かけましょうか。

町中いたるところに汗血馬がかっぽかっぽしてるんだったら、こちらもブリンカー(遮眼革)が必要なくらい興奮するんだろうけど、お馬のエリートとはあれ以来接触なし。

仕方ないんで、TuUMデパートという町一番の大型商業施設に入ったんだけど、これが実に期待を裏切らないほどの凋落振りだから、鳥肌もの。


誰も買わないような製品ばかりスペースを惜しみなくつかって展示
そのままお化け屋敷として使えそうなほど暗い店内。省電力を徹底
何にも増してやる気のない店員。係のいないブースも約半数を超え



デパート最悪.jpg

◎参考写真2: どんな買い物マニアでも購買意欲を失わせるこの雰囲気



周りの中央アジアの国々と比べれば、国土も豊かで観光資源に恵まれているウズベキスタンなんだけど、そんなことよりやはり、長年の借金(社会主義の残り香)を返すのが先決。

そしてワイロやぽったくりなど誤った資本主義(拝金主義)への傾倒も、早いうちに軌道修正の必要あり。

客観的にいって変えなきゃいけないことがまだまだ多いのが実情みたい。しかも屋台骨(トップ)からだけに、道はそうとう険しいんだろうね。


タクシー代(Tashkent-Fergana) 12000SUM
宿代(Olga&Valentine's GH) 12000SUM
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2006年02月22日

「自己責任」に突入か




#節操なしの旅日記33
Samarkand - Tashkent


旅人同士で交わされる会話って、外国ベースで繰り広げられるネタだけに非常に面白いことが多かったり、役に立つことが多かったりで、基本、ノーガードでウエルカム。


なんだけど、ときに


「聞かなきゃよかった、今晩寝れないよ」


みたいに稲川某の怪談より面倒なものをしょいこんだりするから困ったチャン。


わたし的にはデリーのホテル・パヤル以来、久しぶりに日本人の渦(計4人)に巻き込まれてしまったサマルカンドの宿バホディール。



大学の学部後輩だということが分かった相馬君β(会社後輩の相馬君に似てるから命名)に今後の旅程を打ち明けると、


「フェルガナ(ウズベキ南東部)って今入れるんですか?」


だって。

入れるも入れないもそこ通んなきゃ中国帰れないのよ、おじさんは。


なんて言いたくなる気持ちを抑え、最近の中央アジア情勢に完全無視を決め込んでた自分を反省。昨年、イスラム急進派による結構大規模な反政府暴動が起こっちゃったエリアみたい。


「まだフェルガナから来たって人にあってませんしねぇ」


とバホディール10泊目、すでに長老格の相馬君β。わたしのサマルカンド滞在を予定の3、4箔から「観光は正味一日で切り上げ、首都タシケントにて情報収集」に切り替えさせるだけの風格と説得力をにじませるこ憎らしさ。ほんとたち悪い。



そんなわけで今日は早起きしてタシケント行きの電車にゆられることに。


首都まではちょうど5時間の旅。

すべてのシートが180度リクライニング(注:故障ではない)がきく豪華車両にして3400SUM(3ドル弱)なんだから、やはり物価の安い国なんだと実感。


さらには、これまで移動の際は客待ちのためにバスターミナルで2時間以上待たされたきただけに、定時発車なのがとにかくありがたい。



ウズベクの電ヤ.jpg

◎参考写真1:車両設備に文句はなし。最後まで後ろ向きで走ったのには…



旅人の評判がくそみそに悪いタシケントは確かにでかいだけの町。


たいした見所がないのは当然だけど、社会主義体制の名残を色濃く残していて、看板がないから、ホテルや商店、レストランを探し当てるだけでひと苦労だったりする。


そんなわけで日本大使館を探しあてられないわたし。



ガイドブックの通りに歩けば、日本の国旗が翻っているべき場所には何なのかも分からないような建物があるだけ。


いまいち危機感がないからなのか、あきらめも早く、もうひとつの「日本センター」というところに出向くことに。ここはウズベク人に日本の文化や日本語を教えるための施設で、活字にうえた日本人旅行者にとっても充実した図書館がありがたい。



日本センター.jpg

◎参考写真2:時間さえあれば毎日来たいくらいの日本センター


こちらは下調べしてあったんですぐにたどり着き、100冊近いような手塚治虫全集にかなり触手を動かされながらも、インターネットで情報収集開始。


手っ取り早く外務省の海外安全情報。
フェルガナ地方、およびその国境を超えたキルギスタン側って


「渡航の是非を検討してもらう」
「渡航の延期をすすめる」


みたいなところらしいね。



う〜ん。


危ないところにはいかない。危なくなくなったら速効行く


というのが自分的に「旅の原則」として大切にしてきた部分。その「危ない」を


外務省の定義に従うのか、現地での情報収集に基づいた自分の判断に任せるのか


についてはあまり真剣に考えたことなかったりする。


日本だと、

外務省の危険勧告をおして旅立ち、何らかの被害にあった人には往々に「自己責任論」のかさの下での非難が集まる。今のところそれ以上に一般日本国民に分かりやすい判断基準はないわけだから仕方がないところ。


わたしとしては誰に非難されたってかまわないんだけど、

自分にとってもよほど親しんだ中国、インドなどの一部地域以外は「外務省の定義」に準じた自分の基準だったことに気づいたりするわけ。

フェルガナが「危険なところ」だというのなら、もし今回、危険なところには行かないという自分自身の定義を少し緩めたりすると、今後さらにたがが外れてしまうかもしれないってことが一番気になったりする。



もう少し時間があれば、これまでに旅したじゃっかん緊張をはらんだ地域、その時期において「お国の基準」がいかほどのもんだったかってのを調べれたんだろうけど、本日は午後5時半を持ってタイムアップ。


とりあえず現状で外国人の入域を規制してるんだったら問題なく飛行機でどっか飛ぶしかないんで、明日はフェルガナ方面行きの交通機関を調べてみるつもり。


もしかしてそのまま流れで、ってこともありえんのかなぁ?


宿代(Hotel Hadra) 7000SUM
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2006年02月21日

サマルカンドにひたる




#節操なしの旅日記32
Samarkand


イスファハンは世界の半分


誰がいったかは忘却のかなた(だぶん世界史の先生)なれど、その栄光の面影


イスラム最高技術が結集されて作り上げれた王の広場
川の水に涼みながらチャイを飲めば時の流れも忘れるシオ・セ・ポル


などなどは身を持って体感したからけっして忘れられない強烈インプレッション。はっきり言うとイスラムへの認識(テロ、コーラン、男女差別etc)を改めるに到ったくらいの場所だったりする。


カイロやダマスカスのように歴史だけはさらに古い町とはあきらかに違う、文化の香りと風格を漂わせた場所。


それは宗教の枠を超えて尊敬できるし、その新たな候補地がアジア最後の一大王朝「チムール帝国(1370-1507)」の首都として当時の文化、経済の中心として栄えたサマルカンドなわけ。

ようするにわたしの期待を分かってもらいたいがための長口上なのですよ。



そのメーンディッシュが実は昨日夕方サマ到着の際に見てしまったレギスタン広場。


1400年代から1600年代にかけて建てられた巨大なマドラサ(神学校)がトライアングルに配置されたスペースは「中央アジア一」のゴージャス空間との評価。


だからこそ、近寄るだけで入場料をとられるという代物。


わたしてきに

やっぱサマルカンドすげーゎ

と感動したのはモスクの天井や塔の先端についてるドーム。


これまでは「青色ベースモザイク模様でたまねぎ型」ってのがヒヴァ、ブハラにおけるパターン。ここだと単なる曲線じゃなくて、微妙なモコモコをつけたりしてるから芸の細かさもさすがチムール帝国。



で、そんなチムラーが本日まず訪ねたのが「チムール廟」。

祖国の英雄を奉った荘厳なmausoleum(モーソリアム)なんだけど、本当に遺体がここに埋葬されたかなんてのは別のお話。

とにかくドーム内部中央には「これがチムールだ」という黒ヒスイがあって、周りには「こいつらは親族だ」という大理石たちが数石。



チムール廟.jpg

◎参考写真1:まばゆいばかりの黄金。「カメラ代」とせがむ係員尻目に撮影


まあ、ここに金をけちってたらチムール帝国の度量も知れるわけで、なかなか目の保養になりましたよ。



続いてはバザール。
ちょうど腹もすいたところだし…。


気がつけば赤や緑、原色系の衣装を身にまとったおばちゃん連中が野菜や果物、魚や香辛料などありとあらゆるものを売ってる例の「画になる」シーンのど真中でさまようわたし。

「そういや、エジプトやイランのように『バザールでこざーる』を聞かないなぁ。言うほうももう時代遅れって気づいてるのかも」


なんて人知れず思案にふけるからいじらしい。とにかくその規模はカシュガル並くらいにでかかったっす。


その後も、何かに追われる(笑)ように続く観光地めぐり。



ウルグベク天文台は、「武の人」になりきれずに息子に殺された学究肌の第4代君主「ウルグベク」が築いた天体観測所。ヨーロッパ・ルネサンスをも導くような天文学上の発見をしたのだから、その功績には敬意。


旧サマルカンドの遺跡とされる「アフロシアブ」では博物館見学。7世紀時代のフレスコ画がそのまま展示されていたんだけど、保存状態最悪ながら狩猟や地方君主への中国からの朝貢の様子などが何とか伝わってきて、「一人占めタイム」を満喫できましたかな。



で、これ以上にわたし的にヒットだったのが、この地にイスラム教を伝えたクサム・イブン・アッバスの墓とされる「シャフ・リ・ジダー」


ではなくて、そこへと続く一般ピーポーの墓地群。


サマルカンドでも一二を争う巡礼の地、聖なるお墓の隣だから、誰もが争って


ぼくもわたしもそこに眠りたい!


と思う気持ちも分かるんだけど、その場所、普通の神経してたら十中八九はひいちゃうはず。



怖いお墓.jpg

◎参考写真2:恐ろしいのは墓石に刻まれた似顔絵たち。リアルすぎ


生年月日と没年日が記されてるから、まだ3歳くらいでなくなった人の墓には当然まだかわいい女の子の絵。二十代でなくなった人は軍服姿だったり、かろうじて天寿を全うした男性の墓石は右半分が空白で、おばあちゃんにお迎えがくるのをちゃんと待ってたり。


ふうん、こんな文化もあるのねん


最初はこう思ってたんだけど、そんな道を1キロ近く歩いてたらそりゃあもう早足になるってもんでしょうよ。


あとはモスクをはしごするだけ。信徒以外からは金をとるようなところはあまり足が向かないから、外から建築を眺めるだけで十分。

でかいのも十分わかったし、がんばってるのもさらによく分かったよ。


サマルカンドよ。


あなたには

「サマルカンドは世界のクオーター(四分の一)」


の肩書きを与えよう。

イスファハンより少ないじゃないかって?


いやいや、遠慮なぞせず今後自由につかってかまいませんぞ。


電車代(Samarkand-Tashkent) 3400SUM
宿代(Bahodir B&B) 8400SUM
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2006年02月20日

今日も移動、収穫は…




#節操なしの旅日記31
Bukhara - Samarkand


はい、まずはこの絵をご覧になってからのはなし。



ウズベク国旗.jpg

◎参考写真:何に見えますか?当ててみましょうか。



A.ど田舎の風景。


はい5点(100点満点中)。


「Q.何が見えますか?」

だったら及第点なんだけどね。



じゃあ、ヒント。

「色で考えるたら答えに一歩近づくかも」


そう。

緑と白と青のトリコロール。

さあ、だ〜んだん、だ〜んだんウズベキスタン国旗に見えてくるでしょう?


…なんて言うのは無理がありすぎるの分かってますよ。
(そこそこ、急に地図帳の一ページ目を開かないように)



でも、4時間近く同じ景色を見せられつづけてたら、こんな風に「一人マインドコントロール」にかかっちゃうものなのよ。


またもや移動だけで一日をつぶす(まず客待ちに3時間という悲劇)ことになった本日。今度は左側の席があてがわれ、


「またしてもすごい風景のオンパレードだったりして」


なんて余計な期待を膨らませちゃったから「がっかりリバウンド」が大変。


ウズベキスタンは旧ソ連内有数の「農業国家」とかで、前回のKhiva-Bukhara間が生命を拒絶するエリアだったとしたら、今回はいよいよそのお百姓さんの国の核心に攻め入ってることが車窓からもはっきり。


とにかく畑ばかりが続く単調な風景なんだけど、そこでさっきの「ウズベキ国旗説」が急浮上したと言うわけ。


入国以前は当然のように、

ウズベキ国旗の緑はイスラムの色(緑十字とかね)で水色はモスクドームやミナレットのターコイズブルー


だとばかり思い込んでたんだけど、意外と農業国家を象徴する(畑作業のお百姓さんが常に見ている)この、「作物、雲、空」の三色が国旗の基になっててもいいんじゃないか、と思った次第。


今回のウズベク旅行の核心こそ、念願のサマルカンド訪問だったわけだから、何にせよ核心に近づくことはよいことだ、


と言い聞かせる以外に自分への説得材料の見つからない、要するに水を大量に含んだスポンジのように実のない一日だったわけよ。


バス代(Bukhara-Samarkand) 5000SUM
宿代(Bahodir B&B) 8400SUM
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2006年02月19日

ブハラは2500年の古都




#節操なしの旅日記30
Bukhara


って言うけれど、確かにそれだけのことはあり。
街中を歩いてるだけで、


ヤーパンニ

コレアニ

続いて、

タリバン
キタイ

など。
さらには

チン

だの

オシン

なんて呼ばれ方をすでに経験積み。

街角の皆さんどなたもかなり想像力がおありのようで…


「ヤーパンニ」が正解(いちおう)。それ以外だと、


「コレアニ」ってのは韓国人。

実はウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国にはかなりの「韓国人?」って人たちが暮らしてたりする。これほとんどスターリン時代にソビエト沿海州から移住させられた朝鮮族だったりする。

それなりに苦難の歴史があるんだろうけど、若者だと会話も現地語化したりしてて、アイデンティティーはどの市場でもお目にかかるキムチだけだったりするから、食のパワーはやっぱり最後のとりでやね。

最近は韓国企業の進出も活発で、車はDAEWOO、電気製品はLGがかなりの浸透度。そんなわけで、今も昔も結構なじみ深いのが「コレアニ」みたいですね。



フハラバザール.jpg

◎参考写真1:市場は人の集まるところ。だからお声をもらう




「タリバン」


もちろんあのタリバン。

ウズベクはイスラム国家なのでこっちのほうがウケルかな、と思って久しぶりにひげをのばし始めたのと、決定的なのは帽子。もう10年前にパキスタンで購入したお気に入りがもろ「アフガン部族仕様」だったりするから、こんな声のかけられ方をする。

じゃあ、モスクとかにもただでいれてくれよなっ!

といいたくなるね。



「キタイ」


確認したわけじゃないけど、遼王朝をたてたモンゴル形の契丹部族が「キタイ」だったから、多分「モンゴル族」だと思われてるんでしょうな。これくらいだったらまあ、「想定内」でしょう。

そう。

貴様らの国をじゅうりんして巨大帝国を打ちたてたハーンの末裔なのだよ


と言ってもいいんだけど、言葉足りず。それに予想がぜんぜん違ってたら恥ずかしいし…

(※後述:キタイはロシア語の「中国」と分かりました。あ〜ぁ)



一方で間違いないのが「チン」。


「中国」もしくは「中国人」。実はこれ、中東では超メジャーなこの差別用語。

「チニ、チニ、チ〜ニヤ」
「チャン、チュン、チョン」

など応用形もあったり。東洋系の顔を見れば確かに人口的な比率から考えて「中国人」と思うのはある種当然。でも、なぜこんなに馬鹿にしたがるのかはいまだミステリー。


久しぶりに浴びせられるこうした言葉に、


そうだよ。昔はただ無視だったけど今はその中国語しゃべれんだよなぁ


と逆にこっちも感慨ひとしお状態かな、と。



「オシン」は「おしん」


あの橋田ファミリーのはしりですな。なんでほかのは国名、民族名なのにこれだけ固有名詞、しかもドラマ名(女性名)で責めてくるのかっていうと、またしても「中近東汎用パターン」。とてつもなくこのドラマの受けがよろしいようで(苦笑)。


「おしんには人生のすべてがある」


とはブハラの宿の若いにいちゃん。


「おいおい。今からそんな老成したこと考えなさんな」


とのどまで出かかるが、それくらいにこの国の「おしん教」も度が過ぎているらしい。

それくらいだから、街角でも「おしん」「おしん」とよく聞くんだけど、わたしはおしんじゃないし、


「おしん」と分かるんなら、まずは「ヤーパンニ?」からだろう


と、ものの順序が結構気になるわたしでした。



もちろん、

すれ違う人たちに毎回毎回国籍を聞かれてるわけじゃなくて、


「ねぇ、あの人って韓国人かしら?」

とか

「ほら見ろよ。あいつタリバンだぜ」

なんて風に仲間内で話しているのがこっちの耳にまで届いてしまうと言うのが大半。だからいちいち


「いえいえ、ヤャパンニ(日本人)ですよ」


と答えることもおっくう。
ただ、だいぶ間をおいて


「ハロー」


と声をかけてきたりするから困ったもの。

向こうさんも街角に突如現れた国籍不明のいい男に興味津々、それでいてためらう気持ちもあるからこの時間差攻撃なんだろうけど、せめてすれ違う前までに声をかけましょう(笑)。



ブハラの夕焼け.jpg

◎参考写真2:そんな感じでいつのまにか暮れてゆくブハラの夕べ


宿代(Nodirbek B&B) 12500SUM
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2006年02月18日

砂漠大河検問夕陽根雪




#節操なしの旅日記29
Khiva - Bukhara


意外と大きいウズベキスタン。国土は日本の約1、2倍で、日本ほどじゃないけどやっぱ細長かったりするから移動ってめんどくさい。



「ブハラまでは8時間くらいかかるぞ」


と見送りにきてもらったバス発着所で、サダム・フセインをスーパーマリオ風にコミカルにした宿主人にそう言われ、


「だってバス代5$くらいって言ったじゃん」


と逆ギレしそうになったわたし。


それくらい庶民物価は安い国なんだよね、ウズベクって。



すでに正午近く。

これからすぐ出発したとしてもバスがつくのは完全日没後の午後8時。
でも現実は座席のまだ3分の2が空席だったりする。


あぁ、いつになったら出発できるんでしょうね



とにかく待ちに待ちつづけた出発は午後2時前がせまってのこと。


一人分の空席もつくらずに詰め込むほどサービス精神旺盛なドライバーだけど、宿主人の知り合いらしく、ブハラでは必ず宿までの足を探してあげるように念を押されるなど、わたしの運命を握っているのも彼らなわけ。


信じたい気持ちは山々なんだけど、かなり窮屈な一番後ろの座席右側に座れと指示されたあたりは、なんかあまり歓迎してくれてる風でもなさそう。


とにかく出発したことだけにでも喜びを感じなきゃ


と控えめさんを今日の生きる道に決めたわけ。



で、とにかく一歩ヒヴァを出ればもう砂漠、砂漠のオンパレード。
少なくともわたしの視界が捕らえる進行方向右側はすべて砂漠。


もちろんカリブの島みたいに思わず目を細めたくなるようなホワイトサンドビーチではなく、ちょっと引っ掛っただけで相当いたそうなイバラ系の植物だけが生えたかなりのサディステック世界。


またヒヴァの奴隷を思い出してしまいました(笑)


ところで、そんな無常な世界だけが延々続くかというとそうじゃないから女王様もたいしたもの。


おそらくトルクメニスタンとの国境沿いを走っている(時々トルクメン入りしてるらしいけど…)この道路。

本当の国境ははるか東方パミール高原に端を発してアラル海へと流れ込む内陸河川「アム・ダリア(赤い河)」によって見えないラインが引かれてるいるわけなんだけど、バスの乗客にもときどきその麗しきお姿を見せてくれるから感動もの。


「チベットのどこどこの湖がトルコ石色に美しい」


なんてチベ好きの間でよく話題にのぼるわけなんだけど、どっこいこちらの大河もその川幅からしてまず湖級でしょう。

そして美しく輝く川面もトルコ石でなければラピスラズリ。とにかくシルクロードの恵み、数千年の歴史年を支えてきた力の源を見ることができて思わずラッキー、超満足の世界。



で、そんな感動の余韻を簡単に吹き飛ばしてくれるのがご丁寧にも砂漠のまん真ん中にで〜んとそびえるチェックポスト。


隣のトルクメンともエネルギー関係のごたごたで最近あまり仲良くなく、反体制派の動きを警戒して自国民の国内移動も制限してるような国だから、しょうがないわけなんだけど、


「いい感じで飛ばしてんじゃな〜い」


と思ってるときに限って、検問待ちでまた20分、なんてことが数回。バス運転手たちは心得たもんで自分たちの番がくればスムーズにOKをもらってるんだけど、いかんせん検問はすべての車両が対象だから思うようには進まない。


こればっかカリモフ大統領の国是みたいだから、彼の政権が続く間はウズベク的風物詩として続いていくんだろうなぁ〜


と思った次第。




おしっこしたいjpg.jpg

◎参考写真:検問待ちの風景。「俺おしっこしたくなったよ(右)」



さて、砂漠に夕日が沈む時間となりました。

海の彼方に沈む太陽が周囲に溶け込みつつどこかやさしさを含んで、迫りくる夜への楽しみすらにじませているのだとしたら、砂漠に沈む太陽は最後まで強烈に赤い光を発し、空と交わることなく地平線に消えていくから、


「あとはおまえの好きにしろ。明日があればまた明日」

みたいな厳しさがかなりびっしびし伝わってくる。


その言葉をまるで地でいくように、いつのまにか暗闇に包まれ始めた世界で、砂の上には根雪がちらほら見えるようになり、気がつけばそれば砂漠の黄土色と決して同一化することなく、マーブルチョコレートみたいに2色のまだら模様を作り出していたりする。


「こりゃ寒いなんてもんじゃないでしょう」


水深50メートルくらいに群青色の大気に包まれたマーブル模様は一口いただきたくなるくらいに幻想的。でも、バスを降りたわたしに待っているのは一瞬の幸福とそのあと永遠に続く死の世界のようで、お行儀よくバス窓から眺めておくだけの素敵な時間にしておくことに。



いろんな風景を過ぎて通ってたどり着いたブハラ。



ちゃんと運転手家族にタクシーを手配してもらい、宿にもたどり着けたし、とにかく指定された座席からの眺めだけでもう最高。



つまらんと思っていた移動だけの一日。
どっこい、旅は何がどう転ぶかわかりませんな。

ハラショー!


バス代(Khiva-Bukhara) 6000SUM
タクシー代 5000SUM
宿代(Nodirbek B&B) 12500SUM
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2006年02月17日

奴隷売買の古都を歩く




#節操なしの旅日記28
Khiva


ウズベキ入りした昨日はほぼ徹夜の行程がたたってか、たんにだらだらのインドモードが抜けないだけなのか、とにかく昼間っから爆睡モード。落ち着いてヒヴァの町を観光できるのは今日一日なんだけど、昨日お散歩した限りでは、


それ(今日だけ)で十分でしょう


ってサイズの町。


ちょうど中国的には平遥(山西省)にあたるのかもしれない。


共通点といえば、

町を城壁で囲まれておりまして、
内部は『当時の姿』が保存状態よく、
古の昔から20世紀前半までは何とか栄えておりました。

だからともに仲良く「世界遺産(ブランドっ!)」。



でもって違うこと。


平遥が金融、手形関係の取引で栄えていたのに対して、ヒヴァはなんと、「奴隷取引のまち」として名をはせていたらしいんですねぇ。


ヒヴァはその地理的位置から、北からは草原のカザフ人が連れられ、南からは砂漠のトルクメン人が。そのまたはるかペルシャやクルドの地なんかからも、商売意欲旺盛な奴隷商人たちによってさまざまな人たちが連れられてきたわけ。


ものの本には「健康なロシア人はらくだ4頭と取引された」という記述もあるのだとか。


ちなみに、わたしが勤め人時代に知り合ったナターシャ・ペインターさんというアフガニスタン出身の女性は50歳くらいなんだけど、彼女も子供のころ奴隷商人に連れられていた、という波乱万丈な方。

当時の思い出を描いたという夜の砂漠にたたずむ奴隷キャラバンの絵を久しぶりに思い出したわたしでした。



そんなおどろおどろしい歴史はなかなか「本筋」としては扱われにくいもの。

でも、そんな「前近代的」な風習を前世紀初頭までやり続けてたような超保守的「ハーン(首領)」が治めてた土地だからこそ、モスクや神学校といった宗教施設や西洋化を拒否したイスラム伝統の土壁建築が残ってたりするのが、歴史の皮肉。


さらに冷戦時代、世界の片翼を担ったクレムリンの人たちは、どこかの超大国希望国家(進行形)と違って、70年代からこの地区の保護を始めてたというから、「う〜ん」とうなるものがある。一方じゃ文革ばりばり、チベ寺壊しまくりだもんね。



とにかく、だから、



ヒヴァのドーム.jpg

◎参考写真:歩き回るだけで楽しくなるところ、なわけ。このヒヴァは


ただ、暖ったかけりゃね。


何スカ、この低温注意報でそうな底冷えは。


街中歩く人、みな真冬のモスクワみたいな格好してるし、



奴隷商人の末縺.jpg

◎参考写真2:ただし子どもは別。でも奴隷商人の末裔なんだけど…


何よりまだツーリストゼロ警報が続いてるんですけれども!


世界遺産を一人占めしてうれしい気分なんてものの10分。


容赦なく肌にぶちあたってくる寒風に耐え忍びながらテクテク、テクテク、と続ける町歩きのどこが楽しいものかっ!


誰か奇特な人よ。

暖かい太陽か、ひま潰しできるような話し相手in英語(=外人観光客)をわたしに授けてくださいませんか。


とでも叫びたい気分。


まあ、こんな2月も皮パンツいっちょ(わたし的勝手なイメージ)でラクダなんかと交換されるのを待ってた人たちと比べたら、申し訳ないことなんですが、ね。


ほんと、でも、

電線すらまったく見当たらないような現代の要素を完全に廃した町並み、どんな観光地に行ってもなかなかありえない貴重な場所であることは間違いないようで。


宿代(MirzoboshiB&B) 12000SUM
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2006年02月16日

賄賂は正しく定価にて





#節操なしの旅日記27
Tashkent - Urgench - Khiva


さてさて、とうとうウズベキスタンにきてしまったのね。


午前4時という容赦ない時間にタシケント空港に到着したウズベキスタン航空機。それでもインドのおかげで発着一時間遅れだったりするけど(笑)。



このわたし的「行ったことない国の中じゃ行きたい国ランキング」のTOP10、ひょっとするとかなり上位にランクインしてるかもしれない「おおもの」だから、期待はいやが上にも高まるってもの。


そんな好きなら、節操なしの旅じゃなくてちゃんとした計画を立てて行くべきでは?


それもまた一理。
いや、それこそ本道。

でもすべてに予定調和を求めていては柔軟な旅人たりえず。


知らない町で急遽「空襲」のような夜を明かしても、信じてた友達にバイクで転倒させられても、高山病で発熱、出発か養生かの判断に悩まされても、とにかく現場でどう対応するかも含めて「旅は面白い」だったりするわけだから、


「行ける。ならば、行こう」


という段階になってみて、これから先の顛末を面白くするためにどれだけ工夫を凝らせるかというのが新たな快感になってる昨今。やっぱ本末転倒っすかね(笑)



とにかく今回のウズベク旅行のネックは時間。


次の学期は遊び人で通す(学校行かず)とはいえ、世間の留学生と同じくらいにはバカンスに区切りをつけたいところ。

いつのまにかこの旅も1ヶ月近くがたってしまい、終わりと決めていた3月上旬がもう目と鼻の先にまできている状況。


だから何を考えたかといえば、

無駄なことはしない=金をつかって時間を節約する



つまり、

国土の東端にあって見所は何もなし、国際空港だけのタシケントに第一歩を記し、国内各地に一直線上(これが「絹の道」だったりするわけだけど)に点在する超一等観光地をめぐって西の端まで旅を続けたうえで、また同じ道を国土の東端まで戻って中国を目指す


というルートはどう考えても同じ道のダブりがあり、陸路移動ということを考えれば時間の浪費は相当なもの。いっちょ飛行機を使いましょ


となるわけ。


そこまではインドにいるうちから考えてたんで、ビザと入国航空券の手配ができたところで、デリーにあるウズベキスタン航空のオフィスを訪問。


たいていどこかの国の国内航空券を別の国で手配する場合、航空会社が勝手気ままに設定した「手数料」や「両替比率」なんかのせいで、入国後に購入した場合の2倍近い金額を払わされたりするから注意が必要だったりする。


もちろん国内線の時刻表を教えてもらうのはタダなわけで、それだけでも行く価値ありと思っての訪問。ここでもサリーを着たインド人おばちゃん。


「昨日、日本人に片道航空券を売っていいかって問い合わせがあったんだけど、あなたね」

なんて言われながらもコンピューターをたたいてもらい、


「ウルゲンチ(ヒヴァ)行きが午前7時。ブハラ行きが午前9時」


まさに超早朝着の飛行機から乗り継ぐにはぴったりの時間帯ってことで、勢いあまって値段も聞いてみると、これまた60$くらいで現地価格に近い値段。


「じゃあ、ここで予約入れてもらっていいっすかね」


「それは無理。もうウエイティング(空席待ち)だから」


「えっ、本当?」
(まじかよ。まあ、明日の便だしなあ)

「じゃあ当日のほかの便は?」


「もう全部ウエイティング。でも空港で10$払えばOKよ」


「はぁ、そんなもんっすかねえ」


それってやっぱ賄賂だよね。
賄賂でウエイティングの順番あげてもらうんだろうか


と首をひねりながらオフィスを後にしたのが、もうかれこれ十数時間前。


とにかく来ちゃったもんは仕方がない。


以前に比べてビザの取得は簡単になったウズベキスタだけど、相変わらず税関検査のほうはかなりの厳しさ。ちょうど10年ちょい前のベトナム入国時の雰囲気。

持っている外貨のほか、高級電化製品などもすべて申告。その申告書でさえ、現地語表記のみでしかも2枚記入が必要など不親切さはとどまるとこしらず。


でわたしの場合、実際税関職員に生外貨を見せる必要まであったから、形式たけが残されてるというよりも、実際にかなり目を光らせてるなという雰囲気がびんびん。



そんなこんなで一度空港の外に出たのが午前5時過ぎ。
あたりは当然暗いけど、そこに待ち受ける業者の数は相当なもの。


「タクシー?」
「ミスタータクシー?」


と聞こえてくる英語はこれくらいだけど、インドからの便が結局40人くらいしかタシケントで降りなかったというのに、この客引きは異常な多さ。どうやら一時間もせずに大阪からの便が到着するようで、そちらの金ずる目当てというのが正解なよう。


だからわたしなんていい迷惑なわけ。
日本人と見れば田舎の自販機に集まるカメムシさながらによってくる客引きたちに


「フロム・インディア・OK?」

といいふくめるだけで一苦労。
そのまま隣接する国内線ターミナルに移動。


ところが、

もう2時間後にはウルゲンチ行きの飛行機が離陸するはずなんだけど、ターミナルはさびしく明かりがついているだけ。ガラス越しに中を見ても一人の姿もなし。入り口さえどこかわからない。


とにかく建物近くのベンチで「変化」を待っているとやってきました怪しげな40代男。客引きよりは流暢な英語で、


「どこに行くんですか?」

「ブハラかウルゲンチ」

「飛行機は満席ですよ」
(何で調べもせずにそんなことわかるんだよ)

「でも今日行きたいんだよね」

「10$払えば座席を見付けられます」
(ここでもやっぱり10$か)

「そう。じゃあ、あんたじゃなく航空会社の人に聞いてみるわ」


というやり取りがあっただけでまもなく6時。

さすがにあせってきたんでまた国際線ターミナルにもどったりして、航空券売り場を探すものの、とにかく


言葉が通じないし、向こうさん、協力姿勢もまるでなし


両替だけは済ませたものの、徒労を募らすだけでまた国内線。
ターミナル内にも徐々に人が姿を現せ、チェックインカウンターにも「Urgench」の文字。


まあ、助かった

「ウルゲンチ行き一枚ください」

とカウンターの男に話すと、面倒くさそうに離れた別のカウンターを指され、「ノー・イングリッシュ」とあっちに行けの仕草。


そこで再び「ウルゲンチ行き一枚ください」なんだけど、そこにいたのは例の「10$オヤジ」だったから始末が悪い。


「また会ったね。ジャパニーズ」

(うわっ、結局こいつに頼むしかないんかい)


「ウルゲンチ行きなんだけど…」


「さっきも言ったけど10$必要だよ」
(うっ、あと搭乗まで多分30分もないよなぁ)


「…それで都合つけていただけるのであれば、よろしくご足労お願いします(ぺこり)」



「OK。待ってろジャパニーズ!」


とそこからは急転直下。どこかに電話をかけて、その後は空港内の料金カウンターへ。

「いいか。ここでは航空券代(55000SUM)だけ出すんだぞ。それからまた俺のところに来い。そして航空券と10$をパスポートにはさんで俺に渡せばOKだ」


はいはい。
もう完全に悪の手ほどきを受ける気弱な小市民になってしまいましたよ。


航空券を購入できたからって奴がチェックインカウンターにいるかぎりは、10$を逃げとおすことはできなそう。


しぶしぶと、しかし表面上は笑顔を絶やさずに「支度金」とともにパスポートを渡すと、

「いいかこれは個人的に受け取る金ではないんだ」
「他人には『日本で予約をいれて現地で航空券を買った』といえ」


などとまた新たな指示。
とにかく机上の人になることができたんだけど、またその飛行機がもう…




ウズベク夜明け.jpg

◎参考写真1:ケツから乗り込む約30人乗りのYAK−40型機。



座席自由。
客室内にまで物資が積まれてます。


だいたい、座席なんて5,6席はあまってるわけじゃない!


さっきまでは、10$があの職員の懐に入るのかと思って悔しい気がしてたわけだけど、航空会社がらみで「ウエイテング」などと嘘偽りを作り出して、外国人からあぶく銭を取り上げようとする魂胆。

数年前に外国人料金が廃止され、国内外旅客とも同じ値段で航空券が買えるようになったというのが建前なんだけど、実は今回のような仕組みで利権はちゃんと存在していたわけ。


ちなみに持参の洋ガイド本にこんな記述発見。

ウズベキスタン航空ではよくフライトがウエイティング待ちだといわれるが、実際のところ、席は大丈夫である。ただ、「A reservation finders fee(予約発見費)」なるものとして、国内線では最高20$、国際線ではその5倍ほど必要とされるが…。




Yak-40.jpg

◎参考写真2:窓も汚いおかげで朝日がぼやけていっそう幻想的に


うれしはずかしウズベキスタン第一歩。
いやあこれだから闘志も沸いてきますよ。


両替100$→120800SUM
航空券(Tashkent-Urgench) 55000SUM
わ・い・ろ 12000SUM
タクシー(Urgench-Khiva) 9600SUM
宿代(MirzoboshiB&B) 12000SUM
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2006年02月15日

バレンタインの某??劇




#節操なしの旅日記26
Delhi-


「もう、せっかく来たってのに『忙しいから』だって。そんなにインド人が仕事好きかって話でしょっ。もう(怒)」


決して退屈にはなれない国インド。
それは訪れる人たちにも原因(問題)があるようで…



「朝ご飯まだ?一緒にどう?」

と、半同部屋(後述)の日本人女性に誘われたのがほんの数分前。ホームグランド「GOLDEN CAFE」に落ち着くと、聞きもしないのにもう言葉があふれだすあふれだす。


昨日夜、ホテル・パヤルのドミトリールーム(相部屋)に一人残されてたわたしが、「そろそろ夜めしか」と腰をあげたそのとき、たまたま嵐のように勢いよく部屋に入ってきて、

「あっ、だれもいないんだ」


と、そのまま世間話に30分ほど付き合わされた関係。


27歳。
Y県出身。
インドには2日前に来て明日帰国。

今日初めて公共バスに乗って、思いのほかインド人にやさしくされたまではよし。ところがヒンズー語の会話集(1800円)を風で飛ばされなくしてしまったから、「旅行保険で請求してやる!」と息巻く彼女。ちなみに前回はサルに破られたガイドブックをえさに保険金をゲットしたのだそうで。


短い旅程ながら節約派で通しており、はなからパヤルに投宿。でも今日は別の宿(シングル)をとっちゃったとかで、


「どうしよう。もうこっちをキャンセルできないし」


と不可解な行動。


ただ、そのあけっぴろげな語り口を聞いてると、なんとなくこっちの脇もゆるくなるようで、身の上をちょっと晒けてみると、


「そうか、インドにも留学できるんだ。ヒンズー語勉強したいかも」


なんて意外な反応もみせたりするから要チェック度もUP。


そして夜飯から帰ってきたころ


「やっぱ向こうに移りま〜す」


と出かけ、今朝目がさめると


「おはよう。やっぱ帰ってきちゃった」

とベッドの上から眠そうな声。


とにかくマイペースを突き進んでいることだけははたから見て間違いなし。



で、ゴールデンカフェ。

彼女の話はもっぱら、約半年前、初めてのインド旅行で知り合った現地の男性について。


「一回会っただけなのに、食事に連れてってくれてビールもたくさんおごってくれて、そして彼のほうが泥酔するくらいに飲んじゃって…」


に始まるものの、


「帰国後もずっとメール続いてたから…」
「今回ようやく休みをとってきたのに…」
「『俺がバイクを借りてデリーの名所を案内してやる』とかも言ってたくせに…」


(要するにすっぽかされちゃっわけね)


「そりゃ普通外国から友達がきた、仕事くらいどうにかするでしょう。そんな忙しい仕事なの?」


と、まだ都合を飲み込めてないから、普通の応対につとめてみる。


「で、で、しょう」
「あっ、ここのチャーハンおいしいし」

「彼、近くのネット屋で働いてるんだけど、今日は10時にくるんだって。それにあわせてもう一度行くつもりなんだけど…」

(ネット屋なら仕事時間なんてどうにでもなんじゃん。なぜ避けられてるんだ、彼女は?)


「顔も知らずにメル友になって、会ってみたら予想と違うから嘘ついて会うのを避ける、ってのはありそうだけど、まず最初に会ってるわけだからねぇ」


「でしょう?あっ、チャーハンやっぱ多すぎ。食べれない。とにかく『どういうつもりなの』ってこれから聞きに行くつもり。とぼけた対応だったら自分で観光とか買い物しなくちゃ。今日一日しかもう時間ないんだし…」

(ほんとご苦労さんね。たった4日のデリー滞在なのに、そんなインド人に振り回されちゃって)


と思った瞬間、「はっ」とある事実に気づいちゃったわたし。


昨日は聖バレンタインデーではありませんか


悲しいかな、自分とは縁浅いだけにこんなキーワードを見落としているとはまったくの不覚。


昨夜の身の上話では、「最も仕事が忙しいのが2,3月」といっていながら職場の仲間に頭を下げ、現地滞在4日のインド旅行を決行。

さらに昨日(バレンタインの日)にあわせて、インド人メル友と 再開する算段を取り付け、さらにその晩だけ、汚い愛部屋ではなく、別の宿に「シングルルーム」を確保なんてしてしまう。

ついでに「ヒンズー語がしゃべれるようになりたい」と、あたかも「その後」まで見据えたような発言までも。


これだけ状況証拠はそろっていれば、うわさ好きの旅人から何を言われても文句は言えないはず。


この彼女。

かなり「清水の舞台」で今回インド行きだったんじゃないか


事実だけを冷静に探求するわたしだっておもっちゃうこと。


大量消費社会のあだ花として生みおとされた「バレンタインデー」というシステムの中においてまだ、このような「純愛ストーリー』が展開されていようとは(もう絶句)


で、解せないのがインド人男の反応。

日本女性を彼女にできるなんて宝くじを当てるよりも難しく、人生を一転させるほどのラッキーカードのはずなのに…。


メシ食い終わって10分後。
昨日以上にどたどた、ばたばたと部屋に入ってくるなり、あきれ果てたご様子で


「今日はネット屋にも来てなかったわ。ねぇ、どういうこと?」


といってひとしきり笑いを提供してくれたあと、本当に一人で観光に出かけていっちゃいました。


「じゃぁ、これから行ってくる」


バックグラウンドが野良牛と浮浪者さまようメーンバザールでなければ、かなり勇気をふりしぼって彼のところに向かうその光景は美しくもありました。、


「これでけじめをつけなくちゃ」


そう決心して2度目の対面に挑んだはずなのに、その気持ちを完全にすっぽかされちゃった結末。


なのに、

この人はどこまで気丈なのか。
それともどこか一般人的なパーツが抜け落ちてるんだろうか。


と、いろんな想像をめぐらすには楽しい材料だったわけで、だめ押しが、


「わたし、インド人にモテるのかも(喜)」


と言ってにぎやかに戻ってきた本日夕方。
観光地にてインド人に食事をご馳走になり、お土産を購入する際も


「むちゃくちゃ値切ってもらっちゃった」


と満面の笑み。


「ちゃんとメルアドも聞いた?」


というちょっと残酷な質問にも


「当然ゲットですよ」


とへこたれることを知らないからこりゃもう地球外生物。


まだまだ話したいことがあるらしく、


「あのね。実は、…あっ、やっぱ今は止めとくわ…。また今度ね」


なんて帰国直前のくせにスカしてくれるから、「今度っていつやねん?」と、名前も住所も知らない彼女に思わずこっちからメルアドを教えちゃいました。



そして、まじで出発直前のそのとき。

宿のインド人が


「おい。おまえのボーイフレンドが来てるぞ」


の一言を聞くなり、さわやかな握手の感覚とかなりの含みありげな微笑みを残して階下に消えていったのでした。


極限までじらしつくして最後に洗いざらいをゲットする
ひょっとしてそのインド人って相当なやり手なのかも…

それとも実はすべて彼女の方が計算ずくだったのか?


とにかく、まだ見ぬその野郎に「インドの塾長」と名づけたわたしでした。



メーンバザールjpg.jpg

◎参考写真:パヤルの屋上から見たメーンバザール。このくもった中で人生劇が…



空港行きバス 60Rs
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2006年02月14日

完全復活、準備も万全




#節操なしの旅日記25
-Delhi



結局のところ、昨日の発熱の原因は高山病のからみだったみたい。


デリーへ向かう夜行バスがどんどん標高を下げていくうち、1000mを切ったころには、体温も36度代に復帰。最後まで2粒目の薬には手を出さなかったわけだから、


発熱は高度と関係があった。間違いない


と言ってよさそう。

その代わりじゃないけど、発熱時代に胃や腸もよからぬ影響を受けてたようで、お腹の調子がちょっと…。


トイレ休憩だけを心待ちにするバス移動


でございました。



いやあ、それにしても出るもんだね。
標高2000m以下でも高山病の症状って。
初めて聞いたし、初めて体験したよ。


なめザル.jpg

◎参考写真:1800mも十分な高地。高山病をなめんなよ


もちろん、

「俺ってチベットに嫌われてるからじゃ…」

なんて疑念も若干ぬぐえなかったりするからさらに愛憎相半ばしちゃうんだよね(笑)。



ともかく、デリーに戻ってきたからにはお仕事お仕事。


懸案のウズベキスタンビザを求めてまた大使館へ。

11時半前には到着したんだけど、またいつものごとく門前で問答無用に30分近く待たされ、


「このまま『12時になったから休憩です』はないよな」

と思い始めたころ、ようやく中に。
そこにはいつものおばちゃん。

「月曜日に来い」といったのに火曜日にしかこなかった事などおかまいなし。


「パスポートを預けて。午後5時に取りに来るように」


と、ものの一分で終わらす手際のよさ。

「それならなぜもっと早く中に入れんのか」


はあくまで心の叫び。ビザをもらうまではとにかく下手したての平民根性でございますからして…。



お昼は久々にまともなものを食おうかと、コンノートプレイスにてマクドナルド。


ここの食い物なんて別にまともじゃないんだけど、雰囲気だけでもまともかな、と思って入ったわけ。ところが、おしゃれな若者たちのデートスポットになっているらしく、安宿街&庶民市場のメーンバザールでは決してお目にかかれないきらびやかな人たち多数。


豪華絢爛ボリウッド映画の世界、には見劣りするするかもしれないけど、なかなか目の保養をさせてもらって得した気分。


ただあの若いおねえチャンたちも25を超えれば、エイリアンの誕生前かのように下腹がどんどん出始め、やがて恥じらいもなく肉をたぷつかせながらサリーを身にまとって町を歩き回るようになるんでしょうけど、ね。



さて。

入国許可の方はめどが付きそうなんで、次は入国手段の確保を開始。


当然時間がないから飛行機チケットを買うんだけど、旧ソビエト連邦時代からの旧習にかどわかされ、多くの旅行代理店ではいまだ、


「往復でなければ航空券は売らない」


という態度。

「おい、おっちゃん。時代は変わってんだよ。日本人はビザの取得も簡単、招聘状も不要になってるわけだし、ね」


と説得を試みるも、このオッチャンたちの頭が旧態依然で、制度変更の事実を自分で確かめようともしないからたちが悪い。


結局代理店をたらい回された上で、インドにおける旧アエロフロート(ソ連時代からの国営航空会社)系チケットの総代理店みたいなところを紹介され、そこで再び交渉。


まったくもって取調べ中の警察官のよう、もしくはドーピング真っ最中のベン・ジョンソンのように充血した目つきで視線の片時も動かさずわたしを見つめつづけるオヤジにまた事情を一から説明し、何とかチケットを売ってもらう事に成功するも、パスポートのコピーは取られ、


「ビザが取れたらすぐにそれを見せに来い」


とわたしの説明、まったく信用していらっしゃらないご様子。

まあ旧社会主義体性の悪習は時と地域とイデオロギーの壁を超えて、こんな細かいとこまでいらぬ影響を与えてるんだなぁ、と勉強、べんきょう。


このオッチャンに時代の変革を見せてやるためにも、ビザを受領に行きましょう。



結局どこから乗っても、何度交渉しても必ず平常+50%くらいふっかけてくるオートリキシャには乗らずにまたしてもバス移動。


バスヤ窓から.jpg

◎参考写真:もう何度も見たバスの中からの大使館集中エリアの風景



夕方5時が近づいてたんでちょっと焦り気味だったけど、まあかろうじてセーフ。初めて門前で待たされることなく、スムーズに館内に入ると、またあのおばチャンとご対面。


「出入国人滞在日数を確認してね」


と、それはもっともなお言葉。
ビザさえもらえばこれで立場は対等、いや逆転か、くらい思ってたんだけど、ガラスごしに初めて見せる笑顔にほだされ、わたしも笑顔で


「サンキュー」


と言ってしまったわけ。


そしてまた代理店。

再び顔色ひとつかえず、ゲットしたてほやほやのウズベクビザを慎重に眺め、コピーを取る取調官的おやじ。


「どうだ分かったか。これが現実。時代は変わってんだ!」

と思わず口走りそうになるわたし。
でも機先を制したのは向こう。またしても笑顔で、


「Have a nice trip!」だって。


よくよく汚いぜ、インド人。大使館のおばチャンも代理店のチケット売りも。客に対して非礼な事を繰り返しておきながら、最後の最後で「思いがけず」(これ重要)にやさしい言葉をかけたり、笑顔を見せたりするから、


「一応うまく行った訳だし、まっいいか」


と思ってしまうではないか。

やはりインド人、交渉ごとにおいては日本人の数倍上を行く理由が分かったような気がする一日でござんした(笑)。



UZBEKISTAN VISA代 690Rs
航空券(DELHI-TASHKENT) 14809Rs
宿代(PAYAL)      150Rs
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2006年02月13日

完全休用、無駄に一日




#節操なしの旅日記24
Dharamsala-


>体調の方は相変わらず狂おしいくらいに万全ながらも、
>このままでは心が乾いてしまいそう。


などと「かっちょいい」ことをぬかしてたのが数日前。ところが2日も連続して(酒の力で)心を潤してしまったところ、身体のほうに異変が発生してしまうから不思議なもの。



よし。

きょうも朝飯食ったらチベット図書館、午後からはチベット芸術センター(TIPA)でもひやかして、夜行のデリー行きバスに備えるかね。


と午前7時。

ベッドから起きあがろうとするけど、身体がすぐには反応しない。


そういや関節もちょっと痛くないかい?
意識ははっきりなんだけど油断すればすぐぼ〜ぉっとなっちゃうし



おそるおそる伝化の宝刀「電子体温計」を引きだすことに。


大体これを持ち出すときって「時すでに遅し」。

この「十数年来の旅の友」なんだけど、登場回数こそかなり少ないながら、過去に「42.3℃」まで刻みだした事のある、彼ら側から言わせると、なかなか体温計冥利に尽きる人生をおくってきている。それはパートナーとしてもうれしい限り。



まあ、とにかく、現状把握がない限りは緊急対策会議も召集されないわけで、さっそくわきの下に差し込んでみることに。


「ぴぴぴぃっ、ぴぴぴぃ」

はい。
37.8度。


今のところ状況は赤みがかった黄信号なんだけど、旅の予定を狂わせかねない危機感より、熱によるつらさとかよりり、まったくもって原因不明な事の方がぜんぜん気になったりする。



昨日のシャワーか?

そういや温水なんてないから、高原から湧きだす超冷水をあびたのがいけなかったんだろうか。水流しながら髪洗ってると、かき氷を超速で食ってるときとは反対、頭を外側からぎゅうぅぅっと締め付けられる感触。さすがに我慢できなくて休憩入れちゃったもんなぁ。


高山病か?

ここはダラムサラは高地といっても標高1800m程度。そんなんで高山病って症状をあらわすものなん?それにここに来てもう3日目よ。普通は初日の夜ぐらいからでしょう、熱が出たりするのって。だいたいまだ20日もたたないころには4000m近いところをうろついてたわけじゃない。


て、ことはやはり、今回も…

仏像激写の後に訪れる天罰シリーズかも。
そんな事言っても、ツクラカン(中央寺院)の観音菩薩はなかなかゴージャスだってんで…


病人.jpg

◎参考写真:なかなか良い表情してるっしょ。撮らない方がおかしい



とにかく午前中は宿部屋待機やむなし
安静にして汗を出して熱を下げよう


の断を下したのはいいけど、発熱折れ線グラフはどうやら始まったばかりだったよう。体温計を脇に挟んだり口に含んだりしていくうちに、だんだん


「ぴぴぴぃっ、ぴぴぴぃ」


が鳴るまでの時間が長くなり、はてはわたし的赤信号(=自己回復力以外の助けを借りる)の基準となる39度が目前にまで迫ってくる始末。



時刻は午前11時半を過ぎました。


とりあえず正午のチェックアウトは無理だから、延泊手続きを取りに行くか。回復したら夜行バスに乗ればいいさ。宿代は70Rs(約200円)だからたいして惜しくはない


と、指先や足先まできちんと己の意識が届いてるとは思えないような、体のあちこちを動かすたびにいちいちぎこちなさを感じる、まどろっこしくも要するにだるい思いをしながら、とにかくレセプションへ。


「体調悪いから、午後からも部屋使わせてね」


と、若干心配の態度を見せてくれないかなあ、体にやさしい食べ物や薬なんかの手配をしてくれるかな、とと思ってのコメントだったのに、若いチベタン青年は、


「宿代は全額払ってもらうがいいか」


だって。
それだけ。


でも捨てる神あれば拾う神。



「どうかしたの?」


と久しぶりの日本語&ふりむけば若干チベタンに見えなくもないけど、服装などから完全に日本人女性。


シーズンオフのダラムサラ。まったくいないと思ってた日本人だけど、実は同じ宿に泊まってたのでした。しかももう一ヶ月近くということ。



「いやぁ、かくかくしかじか、こういうわけで…」


「じゃあ、薬あげよっか。熱だったらこれがいいよ。薬局では買えない強力なやつだから」


いにしえの昔から長旅する日本人といえば「男は自動車組立期間工、女は看護婦」と相場が決まってて、話振りから彼女もおそらくナース風情。


拝むようにして二粒いただいた白い錠剤。


「効き目強いから飲むのは一粒ずつ、何かを食べた後にね」


とは心強い。


「別に無理して今日かえんない方がいいんじゃ…。あっ、夜ご飯に『肉じゃが』作ってあげよっか。わたしの部屋キッチン付きなんだよね」


と泣かせるようなせりふまでてくださるわけだけど、この段階になって気になり始めた彼女の「ため口orお姉さん口調」。日ごろは年齢の割に貫禄出過ぎのわたしだけど、それほどオーラを失っていたんだろうか。


とにかくチャイを頼んで薬を一呑み。


真の意味での緊急時に備えるため、日ごろまったく薬から身を遠ざけているわたしだから、彼女からブツをいただいたこの時点で勝ったも同然。薬の効き方が常人とはけた違うのよ。


部屋に戻って再びベッドに横になって数時間。果たして今度は、


「ぴぴぴぃっ、ぴぴぴぃ」


が徐々に早くなっていく快感。

午前4時ごろには37度近くまで落ち着いてくるにいたって荷造りを開始。薬が切れたのか、また曲線は上り調子なってきたものの、部屋を訪ねてきた彼女にも


「やっぱ先が込んでるんで、きょう出ます」


と最後まで敬語でお別れ。
伝化の宝刀があと一粒のこってるから大丈夫なのさ。


と言い聞かせて宿を出るも、判断能力は平常の半分くらいだったのか。バス乗り場を間違え、


「インドだから遅れてんだろう」


と30分待った挙句に放置された事に気づく始末。もちろん宿に帰るような恥ずかしい事もできずに何とか見つかった後発のバスに乗ることに。400Rsの出費だけど、とにかく今日ダラムサラから移動できたからいいっか。


バス代も薬買ったと思えば…。



でも肉じゃがはちょっと惜しいことしたかな。


Dharamsala - Delhi 400Rs
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2006年02月12日

当世チベット難民事情




#節操なしの旅日記23
Dharamsala


をつぶさに見てやろうといっても、今回のような駆け足の旅では所詮無理な話。


それならば、

せっかくこれまでわたしが暮らしてた世界からすると「あちら側の本拠地」に来ちゃったわけだから、チベット本土を訪れた観光客がそこかしこで「解放後の発展」についてのPRを目にするように、ここダラムサラを訪れた外国人たちは一般的に何を見て帰っていくのだろう、


をちょっと観察してみようか、と。


といいつつ、やっぱ一番目立つのは


ここにもいますよ。インド人(笑)


だったりする。
それはさておき、



本当に英語の流暢なチベタン多数
ゲームボーイアドバンス(本物)をしているチベタン子供

お茶といえばバター茶ではなくミルクティー(助かった?)
それで付け合わせに最適。なぜかおいしいケーキ類。


男性は基本洋装、ジーンズ多し。チュパ、ダシェーなど民族服は老人以外一人も見かけず。女性はまだパンデン(縞模様エプロン)を付けてる人比較的多し。


雲の低い水色の空(本土は濃紺の高い空)


新しいお寺が多いため、聖なる場所のはずなのにあのくすんでおどろおどろしい雰囲気はなく、なんか明るく開放的?


千手観音.jpg

◎参考写真:ながらもクンドゥンお膝元の千手観音はなかなかだったりする。

結局のところ、

ヤク肉、ヤクバターの香りがしない


と言いきれるのかも。
チベット人はいるけど、やはりチベットでなし。


あのレンイエンが最も好む雲南省の独龍族自治県やラオスミャンマーの国境あたりにモザイク的に生息してそうな「民族(性)の臭っさいやつ」がいる雰囲気はまったくゼロ。


民族とははぐくんだ風土と共にあってこそ活きのよさを発揮できるんだ


とあらためて実感。


四川の奥の方のチベタン、あいつらほんっと「くさかった」もんなぁ(笑)


亡命してからでなきゃ得られないものが、いろんな「自由」であったり「教育」だったりするなら、亡命してしまうと得られなくなるものもまたあって、広大なチベットの風景だったり、本来の自分たちの生活様式、そこから生まれる文化だったりするはず。



時がたち、世代が変わるにつれて知らず知らずのうちに「見た目の民族らしさだけが受け継がれ、大切にしていた何かを忘れてしまう」なんてことが起こりえるんじゃないか。


現地のチベット人とひざを交えて話しこんだり、亡命政府系のえらいさんの話を聞いたりしたわけじゃなく、単にダラムサラを2日間歩き回った上での感想。


政治問題の解決には一定の時間が必要だってことはよくあるんだけど、少なくとも庶民のレベルにあっては時が経つことで失われるものがどんどん増えていくばかり、という事だけは間違いないみたいで…


宿代(Green Hotel) 70Rs
Dharamsala-Delhiバス代 400Rs
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2006年02月11日

「Old Monk」に完敗!




#節操なしの旅日記22
- Dharamsala


もういいだろう。インド。
こんなに節制したのはいつ振りだろうか。


多分、いや間違いなく、ここ5年間ではありえないくらい「酒絶ち」を実行中。


インド入国以降だからすでにもう丸丸3日!!!


体調の方は相変わらず狂おしいくらいに万全ながらも、このままでは心が乾いてしまいそう。


理由はいろいろあるけど、ひっくるめていうなら環境の問題。


インド自体が酒に対してちょっと控えめなところがあるから、一般的な食堂ではメニューにない事が多し。さらに酒屋でも、購入した酒を外から分からないようにするためだろうけど新聞紙でくるみ、黒いビニール袋に入れて渡したりするから、こっちだって「いけない物」を買っているような後ろめたい気分になってしまう(笑)。


つづいてインド旅行者にも問題が。

とにかく酒好きは少数派。部屋でパイプを回している光景はある意味「風物詩」だったりするわけだけど、沖縄のどこかの島のように強い酒の入った杯を回すシーンはほとんど見たことなし。単にハッパより「高い」というのが一番の理由のような気もするけどね。


ってなわけで、

「現地の文化を尊重する」というのが旅における最低限の礼儀だと思ってるからこそ、インド人世界&インド旅人世界にいる間酒を遠ざけていたということ。


それでも昔は何てことなかったこの「一時断酒」なんだけど、これほどストレスがたまるとはほんと「想定外」。もう純正イスラム地域には旅行できないんじゃないか、と危機感覚えるくらいやばいかも…。



まあ、いいのさ。
いまはダラムサラ。

酒もあびれば肉も食らう敬虔な仏教徒(!?)、チベット人の世界に突入したわけだから、そんな自主規制も解除間近なわけ。


朝の6時前にバスを放り出され、


「ゲストハウス?」
「ベリーチープ&クリーン」

がお題目の怪しげ120%なインド人客引きたちに包囲されながらも、夜明けまで約一時間はその場にて辛抱。


あたりの様子が分かるようになって町歩きを始めたわけだけど、標高1800m前後のこのダラムサラ。どうやら日中30度からまた冬服の世界に戻ってきたようで、ガイドに掲載の宿は軒並み、


「3月から営業再開します。ごめんね」


の一点ばり。

ますます酒を飲まなきゃやってられない状況になりそうでわくわく感もそろそろ度を越えてしまいそう。



とにかく無事寝床を確保、小休止のつもりが長い長いお休みの後、町を知るためのお散歩を始めたんだけど、ガイドブックに「酒屋」と書いてあった場所が薬局になっていたからさあ大変。


いつの間にか沐浴場兼スイミングプールにたどり着いたり、小川をさかのぼった滝に出ちゃったり、と山の斜面にへばりついたダラムサラと周辺集落を行ったり来り。


川で洗濯.jpg

◎参考写真:人の苦労も知らず川で洗濯。環境汚染を進める小坊主たち



で、とにかく人のいそうなところをくまなく歩き倒した挙句、最後の最後で目的地を発見。

何の事はない、町の中心にも程近く、今日歩いた道を逆ルートで始めたらものの5分で発見できたといういつものような「オチ」付きなんだけど、とにかく発見できたからには通りすぎるわけもなし。


おいしい肉系のつまみが望めないインドだからこそ、わたしの心と身体が欲するのは「ラム酒」。超辛党のプライドなどここでは何の役にも絶たず。それよりフルーツとともにいただく甘いラムが何とも絶妙なハーモニーを奏でちゃうからたまらない。


「ラムはあるかい?」


「ダンナ。3種類ありますが、どれにいたします?」

と小屋をちょっとばかりでかくしたような店の主(30代)。


「聞くだけ野暮だろう。Old Monk以上にうまい酒があるというのかい?」


「へへっ、当然そろえておりやすぜ」


ということで250Rs。そしてやはり新聞紙に包まれた「オールド・モンク」をめでたくゲット。家路への足取りも10分前比約1.5倍のスピード。



ベッドが部屋の半分を占めるような、一応は南向きの超シンプルなシングルルームにひきこもると、


オールド・モンク.jpg

◎参考写真2:新聞紙を丁寧にはがしてモンクのご尊顔と7年ぶり対面


ダラムサラまでやって来た挙句、法王ではなくモンクへの拝謁をここまで喜んでいる不届き者は多分わたしくらい。



マサラ味に世知辛いインド世界に残された唯一の桃源郷、現代のガンダーラ。人生におけるすべての甘美なる味覚や感情を濃縮したようなとろける舌ざわり。そして胸を焦がす恋心にも似てほのかに焼けるその喉ごしは、7年の時を経ても変わるところなし。



モンクの魔力に我を忘れ、ちびりちびりのつもりがオーバーヒート。夕方5時には静かに息をひきとったわたし。そのまま14時間睡眠の世界へと堕ちてしまいました、とさ。


めでたし。めでたし



か?



宿代(Green Hotel) 70Rs
Old Monk 250Rs

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2006年02月10日

何様だ「ウズベク」は




#節操なしの旅日記21
DELHIー



拙Blog読者は賢人ぞろいなんでみな覚えてるだろうけど、旅日記0にてお知らせしてたルートによれば、インド(デリー)の次の目的地はチベット正月(2月28日)にあわせたラサ訪問。



その割にはだいぶ早くデリーまで来ちゃったんじゃない?


かもしれないんだけど、デリーからラサまでの移動にはとうぜん結構な日にちがかかるわけで、旅立ち当時はネパール経由のヒマラヤ越えを想定。



ところがネパールにある日本人がらみの旅行代理店に問い合わせたところ、


カトマンズ発のチベットツアーに参加して、ラサで一行から離れるという選択肢はありますが、許可証の関係でビザは一度取り直してもらうことになります。ですから、そちら様の「1年有効複数回入国ビザ」は取り消されます


とのご丁寧なお答え。



ああ、ビザよ。

香港のラッキーオヤジの手によるこの愛しき万能マルチFビザを手放す事などできはしようか。いや…(反語構文)。



こんなとき、チベット行きって超面倒になるんだよね。


チベット自治区と陸路で接している国はネパールのほかにインド、ブータン、ミャンマー、あと近くにはパキスタンも。


ところがただでさえ政治上の都合から自由に行き来できないというのに、険しい大ヒマラヤという地形上の問題、さらには夏なら道が開いていても、いかんせん真冬。雪のため峠が封鎖という気候条件によって、わたしのラサ行きは完全に八方ふさがりの状態。


勢いまかせてインドまで来ちゃったものの、名実ともによく分かんなくなってるな、この旅も。


と、インド初日。

節操知らずついでとはいいながら、こうなりゃ毒食えば皿まで状態で、ネルー大学以外にウズベキスタン大使館にも行っておりました。


なぜウズベキか ?


そこに、サマルカンドがあるから。


かろうじて平成が始まった高校一年生のとき、学園祭でカレー屋をするため、福岡の大名にあるエスニック雑貨屋で初めてパジャーマ(インドの民族服)を買った思い出。で、それと何の関係があるのさ?


その雑貨屋の名前こそが「サマルカンド」。


今思えばインドと中央アジア、いまいち関係???なんだけど、わたし的エスニックイメージの中心にはいつも「サマルカンド」という名前がこびリ付いてはがれないわけで…


インドからウズベク(サマルカンド)に向かうのも悪くない
まったく初めての地を踏み、右往左往してみようじゃないか


とウズベキスタンビザを申請してたのでした。


「10日にもう一度来い」


がそのときの大使館側の要求。
提出したビザ申請書類にしたがって、入国経路や肩書き、出入国予定日など結構詳しい質問なんかもされてたわけで、パスポート自体は預かりではなかったものの、その上での「10日に来い」だったんで



こりゃ10日にはビザゲットできるな


と目論むのが人情ってもの。
ところがその10日。きょうのこと。


マジックミラー超しに受付係員から


「月曜日(13日)にまた来い」


だって。


はぁ〜?

それだけの答えのために入り口で約20分待たされた挙句、さらに土日を挟んで3日間待てというわけですかい。


とーぜん理由をききましたよ。


「今日じゃできないからだ」


の一点張り。
答えにもなってない答え。
これで誰が納得するというのか。


ホテルに帰ってからもしばし屋上にて放心状態。


パヤル屋上.jpg

◎参考写真:パヤル屋上からの眺め。メーンバザールはこんなに雑踏


こんな汚い以外何もないところにさらに数日間も埋もれてていいのだろうか。



よし、旅に出よう。



思いつくままにインド北部、チベット亡命政府のあるDharamsala(ダラムサラ)行きのチケットを買ってしまうわたし。


夕方にはバスの中。
やっぱ牧場主にはチベタン世界が似合うのですよ。


なんて思いながらね。



そして訂正。

昨日、あれだけ探して見つからないなとあきらめかけ、最終的に見つかったと思って喜んだ、デリーにあるチベット難民の町「Majnukatila Tibetan Camp」。


わたしが見たのは完全まがいもん。単なるチベット寺を中心にしたチベット関連エリアだったようでで、ほんまもんのマジュヌカティラはISBTから同じ道をさらに7〜8kmは北上した場所。


外国人旅行者約10人だけをのせ、大半を空席のままメーンバザールを出発したバスが、ここで大勢のチベタン(僧侶、一般人)を補充したから間違いなし。


それにしてもこれはちょっと中心部から遠すぎ。
ひょっとして最近移転したんでしょうか?


それでもまだわたしは頼りにしてますからね。
某ガイドブックさん。



バス代(DEHLI-Dharamsala) 400Rs
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2006年02月09日

遠いよ「チベット」は



#節操なしの旅日記20
DELHI


どうせインド滞在は大して長くないとはいっても、何だかんだしてると1週間くらいにはなりそうな気配。


その間なにをしようかなんて心積りはまるでなし。


だいたいデリー3度目といいつつ、過去2回も観光らしい観光に一歩も手を染めなかったわたし。だって街中のインド人見るだけでお腹いっぱいになるわけだから、ね。


ただし、

前回までのわたしと今回との大きな違いとして、今ではれっきとした牧場主(ブロガー)になったわけで、そんな無責任な行動が許される社会的地位でもなし。


ってなわけで、チベット世界にかかわるものとしては、デリーにあるチベット難民の町「Majnukatila Tibetan Camp」を訪ねることに。


妥協案なのに渋すぎる!


という感想ならいつでも受け付け。「相変わらず前置き長すぎ!」の批判は受け取り拒否かも。


とにかく、


デリー北部にあるカシミール門から北に歩けばすぐ見つかる


という情報だけを鵜呑みに信じて出発。



まずはデリーにもとうとう開通した地下鉄(METRO)に乗車。


それはそれはセキュリティーが厳重。いちいち構内に入るため金属探知機を通るわけだから、そのたびにアーミーナイフ持参のわたしは身体検査。


基本的にはイスラム系分離主義者か、ヒンディー系、シク系原理主義者のテロ警戒。日いづる国からのイエローモンキーは探知機なろうがご用なし。警備員、


「はいはい、早く行け」


の態度。そのうち日本人がテロ要員としてスカウトされないか心配になるくらいだったね。


間違いなく地下鉄は便利で早い乗り物。たった9Rs払っただけで、歩けば一時間、オートリキシャに乗れば40Rsくらいしそうな距離を10分で結んじゃう。


このカシミール門駅はISBT(バスターミナル)とも隣接しているわけで、もっと旅行者の姿を見ないのが不思議なくらい。皆さん、デリーじゃ地下鉄乗りましょう。



で、それから約1時間半。

地下鉄に乗ったのと同じくらいの距離を歩きました。いや、往復だからその倍は歩いた事になっちゃうのかも…。


またいつもの癖。

メーンディッシュはなるべく後に取っとく性格だから、カシミール門方面から北に北に、いつの間にか駅3つ分の距離をぶらぶらしちゃったわけ。


別に絶対に誓って迷ってたわけじゃあないんだけど、


「もう今日は見なくていいかな」


と思ったところでようやく、ハイウェイの陸橋の後ろ側、かろうじて見え隠れするくすんだタルチョ(蔵語の経文記された小旗)を発見。


「そこにいたことは分かってたんだけどね。それにしてもその隠れ方は異常でしょう。少なくともぜんぜん分かりやすくないし…」



難民キャンプというと結構広い敷地にぼろ小屋やテントが無数に建てられてる光景を想像するんだけど、ここは完全密集型。

4階建てくらいの危なっかしい建物が迷路のように入り組んだ路地を挟んで林立しており、香港にある「重慶マンション」のミニミニ版みたいな赴き。


チベット人が集まるところには決まって寺院もあるわけで、金なくてもおごる時には無理して見栄を張りまくる中国人みたいに、狭い敷地ながらそこだけはかなりのゆったりスペース。



デリーラダック寺.jpg

◎参考写真:ラダック(北インド)系の寺。本堂にはやはりクンドゥン



このデリーの中のチベットエリア。

100m四方あるかないかだったのはかなり意外だったけど、交通量の多い道路に面した側は若干騒がしいながらも、逆側は野良牛遊ぶヤムナー川なんでかなりゆったりした時間が流れていて、もちろんうるさくもなし。


なによりチベット系住人が多くいるということは、わたしらがうろついてもそう目立たないのもよろし。


ついでにバスターミナルまでは500mもなし。


要するにわたしの場合、スタートの段階で北上するため選んだ道自体が違っていたというわけ。よくよくお茶目すぎるわけだけど、これだけ近いなら早朝にISBTを利用する時などは前日このエリアの宿を使ってみるのもお勧め。


おいしくて安そうな中華料理屋もあったりしたんで、インド料理に飽きた人でもOKでは。


もちろん火鍋はないんだけど(禁断症状?)。


宿代(HOTEL PAYAL) 120Rs
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